獏塾「1級合格祝賀会」開催されました

獏塾「1級合格祝賀会」開催されました


昨日、獏塾の「合格祝賀会」が開かれました。

獏塾は、江戸検1級合格をめざして情報交換をするグループですが、昨年11月に実施された第12回の江戸検で、20名の1級合格者が出ました。

 その合格のお祝いするために、40名の塾生が集まって、盛大に行われました。

 第12回の江戸検1級は、平均点が上がっていることから、問題が例年より易しかった面はあると思いますが、獏塾から20名もの合格者がでて、喜びにあふれた会になりました。

第12回の江戸検に向かって獏塾の総力をあげて応援しましたが、合格は、何と言っても合格者の皆さん自身の努力の賜物です。

合格された皆さん、本当におめでとうございます。

下の写真が合格者の皆さんの記念撮影です。

 喜びあふれる笑顔が印象的です。

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祝賀会では、合格者から喜びの声を聞かせてもらいました。

喜寿で合格した人、12時間勉強して初回で合格した人、必勝鉢巻を来年高校受検のお孫さんに渡した人、超多忙な仕事の合間に勉強して合格した人など、努力内容を喜びとともに話をしてくれ、それぞれの話が印象的でしたし、これから合格をめざす人たちにとって有意義なお話でした。

獏塾からは、この4年間で、延べ人数38名の合格者が出ましたが、これには、江戸文化歴史検定協会のUさんのご協力がありました。
 そのUさんが昨年11月末に退職されましたので、昨日の合格祝賀会は、Uさん送別の席でもありました。

そこで、冒頭にUさんから江戸検の思い出を含めてご挨拶いただきました。
 Uさん、長いことお世話なりました。ありがとうございました。

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合格者が大勢で喜びの声に時間がかかり、あまり飲んだり話をする時間がないので、そのまま二次会となり、30名以上の人が参加してくれました。

合格祝賀会に参加された皆さん、喜びあふれる楽しい会、ありがとうございました。

参加者が多く全員の記念撮影ができませんでしたので、各テーブルごとの記念撮影でお許しください。

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# by wheatbaku | 2018-01-22 10:19 | Trackback
『解体新書』(『蘭学事始』)

『解体新書』(『蘭学事始』)

しばらく、『蘭学事始』のことを書いていませんでしたが、『解体新書』についてはどうしても書いておきたいので、今日は『解体新書』について書いてみます。

 『解体新書』というと最下段の表紙が大変有名です。

 しかし、その内容がどうなっているのか、今まで、私はまったく知りませんでした。

 『解体新書』は図だけをまとめた「序図」と呼ばれる巻が一つ、そして本文が四巻からなります。

下記写真は、『解体新書』の巻之一の部分です。

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見ていただいてお分かりになると思いますが、全文、漢文で書かれています。

つまり、『解体新書』は、『ターヘル・アナトミア』を翻訳して和文として出版したのではなく、さらに漢文に替えて出版したのでした。

『ターヘル・アナトミア』の翻訳の中心は前野良沢でしたが、漢文で書いたのは杉田玄白でした。

 杉田玄白は、日中の翻訳が終わったあと、自宅で漢文に書き替えて、翌日、仲間に見てもらうという作業を繰り返しました。

 なぜ、漢文で書いたのかというと、日本だけでなく、中国そして漢字文化圏でも、『解体新書』が利用されることを意識していたからだと言われています。

 その杉田玄白の意気込みは訳者名を書いた上部にある「日本」という言葉にもあらわれています。

 日本の人々が読むのであれば、若狭杉田玄白翼譯だけで済みますが、中国の人が読む場合には、若狭では認識されません。そこで「日本」という国名を付け加えたと考えられています。

 また、『解体新書』には、吉雄耕牛が書いた序文が書かれています。

序文を書いた吉雄耕牛は長崎のオランダ通詞であり、西洋の諸学(天文・地理、医学など)に通じていて、当時、日本で最もオランダ語に卓越していると評価されていた人物でした。

前野良沢が、百日間の暇をもらって長崎に行った際に、吉雄耕牛にもオランダ語を学んでいます。

言ってみれば、前野良沢の師匠ということになります。

吉雄耕牛は、長い序文で前野良沢と杉田玄白たちが、『解体新書』出版に至った経緯について書いて、翻訳の中心人物が前野良沢であったことにも触れています。

その中で、『解体新書』出版の意義について、次のように書いています。

原文は漢文ですが、講談社現代文庫『解体新書 前現代語訳』(酒井シヅ著)より引用させていただきます。

自分はこれを受けとり、読んだところ、内容が詳細で論旨がよく通り、事柄と言葉を原書と比べてみると一つも間違いがなかった。そこで学問に忠実であるとはこういうことかと感心し、思わず涙がはらはらとこぼれた。そしてはたと書物を閉じて、ため息をつき、ああついにこの快挙がなされたと感嘆したのであった。

赤字部分を読むと、いかに吉雄耕牛が蘭書を翻訳して『解体新書』が出版されることに感激しているかがよくわかる序文だと思います。

ただし、多くの学者が、「事柄と言葉を原書と比べてみると一つも間違いがなかった。」と書いてあるのは、書きすぎであると指摘しています。

吉雄耕牛には、逐一、原書と『解体新書』の訳文をチェックする時間も能力もなかったと考えられているからです。

さらに、下記の『解体新書』の扉絵は大変有名なものですが、この扉絵は「『ターヘル・アナトミア』の扉絵とはまったく異なったもので、スペインの解剖学者ワルエルダという人が書いた著書の扉絵と似ていると講談社現代文庫『解体新書 前現代語訳』(酒井シヅ著)の解説の中で小川鼎三先生が書いています。これも意外な発見でした。

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# by wheatbaku | 2018-01-20 03:05 | Trackback
薩摩藩の偽金(にせがね)造り

薩摩藩の偽金(にせがね)づくり

調所広郷が、偽金づくりまで手を出したと前回書きました。

これらは、『調所笑左衛門―薩摩藩経済官僚』(佐藤雅美著)や中公新書『幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門』(原口虎雄著)に書かれている話です。

 「薩摩藩の偽金づくりとは面白い!」、「薩摩藩もすごいことをやるなぁ!」と思いました。

 そこで、この薩摩藩の偽金づくりが本当であったのか、調べてみました。

 まず、人物叢書『調所広郷』(芳即正著)を読んでみました。

この本は幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門』(原口虎雄著)の研究をさらに進めたとされている名著ですが、調所広郷が偽金づくりをしていたとは一言も書いてありませんでした。

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そこで、『偽金づくりと明治維新』(徳永和喜著)を読みました。

この本に、薩摩藩の偽金づくりがどのように行われていたか詳しく書いてありましたので、『偽金づくりと明治維新』を参考に、薩摩藩の偽金づくりについて書いていきます。

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『幕末の薩摩』では、次のように、島津斉興と調所広郷が偽金造りを行ったと書いています。

 貨幣に不自由しきった斉興と調所は、大胆にも偽金造りを始めた。鹿児島花倉に、「御金方の跡」という化物屋敷がある。(中略)天保4,5年のころ、斉興は鹿児島の花倉に別邸を営んだ。世人これを花倉お仮屋とよんだが、落成後斉興が一夜泊ったところ、“天狗喝(おど)し”といってさまざまな怪異が起こった。そこで急に御仮屋を廃して、新たに玉里に代わりの別邸を営み、その(お仮屋)あとを「御金方」にしたと伝えられる。

偽金造りも密貿易も同様国禁であるから記録が残るわけがない。しかし調所の死後も相当大規模に続けていた。


そして、『調所笑左衛門』(佐藤雅美著)でも、偽金作りを準備する場面が描かれています。

しかし、『偽金づくりと明治維新』(徳永和喜著)によれば、芳即正氏が、『随筆かごしま号』で、次のような趣旨のことを書いているそうです。

花倉御殿が存在したのは弘化4年(1847)から文久3年(1863)であって、天保年間には、花倉御殿はなかったから、原口虎雄氏の花倉での偽金作りは、文久2年に、磯鋳造所で開始した琉球通宝鋳造と誤解したのではないか 

 しかし、徳永和喜氏は、慶応年間にも偽金が作られていたとして、芳即正説では、薩摩で「天ぷら金」と呼ばれている二分金の偽金が作られていたことを見落としていると指摘しています。

 つまり、徳永和喜氏によれば、幕末の薩摩藩では、偽天保通宝と偽二分金が造られたそうです。

  

さて、琉球通宝というは、文久23月、当時薩摩藩の支配下にあった琉球救済を名目に幕府に3年の期限付きで鋳造する許可を正式に得て発行された貨幣です。

ところが、琉球通宝は幕府の許可をえたものですが、薩摩藩では、琉球通宝を鋳造する技術を利用して偽の天保通宝を大量に鋳造したと言われています。

次の写真は、『偽金づくりと明治維新』の裏表紙ですが、左が琉球通宝、中央が正式な天保通宝、右が薩摩藩が作った天保通宝だそうです。

これをみると琉球通宝の「琉球」部分を『天保』に替えれば、偽の天保通宝が容易に造れただろうと想像することができます。

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また、「天ぷら金」というは、薩摩藩が作成した二分金の偽金で、本来の二分金は金と銀の混合比率が金22パーセント、銀78パーセントですが、「天ぷら金」は、金メッキした銀でした。

『偽金づくりと明治維新』によれば、これらの偽金づくりを主導したのは小松帯刀と大久保利通であったとしています。
 



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# by wheatbaku | 2018-01-17 20:16 | 大河ドラマ | Trackback
第2回「立派なお侍」(大河ドラマ「西郷どん」②)

第2回「立派なお侍」(大河ドラマ「西郷どん」②)

「西郷どん」の第2回は、もう西郷隆盛役が鈴木亮平さんになっています。

早い展開でいいですね。というより、西郷さんの小さいころのエピソードがあまりなかったのではないでしょうか。

 さて、今回は、薩摩の百姓が大変貧しいということが描かれていましたが、貧しかったのは百姓だけではありませんでした。武士も貧しく、薩摩藩自体も大変貧しい藩でした。

その薩摩藩を救ったのが、竜雷太さんが演じていた調所広郷です。

そこで、今日は、調所広郷について書いていきます。

 調所広郷について書いた本の中で、お勧めは小説『調所笑左衛門―薩摩藩経済官僚』(佐藤雅美著)です。

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 その『調所笑左衛門―薩摩藩経済官僚』も参考にしていると思われる名著が中公新書『幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門』(原口虎雄著)です。

 調所広郷について初めて正当に評価した本とされています。
 これらの本を参考に、調所広郷について書いていきます。

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調所広郷は、ともかく「500万両を踏み倒した人物」として有名です。

しかし、幕末の回天を実現できたのは、調所広郷が天保の改革で、薩摩藩の財政改革と成功させたからだと言われています。

それほど、功績のある調所広郷ですが、島津斉彬の藩主就任を抵抗した人物として、あまり評判は良くないようです。

調所広郷は、鹿児島城下の下級武士川崎家の次男として生まれました。

のち調所清悦の養子となりました。寛政10(1798)に江戸で藩主島津斉宣の奥茶道方となり、隠居した前藩主重豪(しげひで)の側に仕える茶坊主となり笑悦と名乗りました。

のちに茶道頭となったのち、小納戸勤めとなり、蓄髪して笑左衛門と改名しました。

調所広郷は、前藩主島津重豪付きの茶坊主として重豪にお気に入られ、出世していき御側用人(おそばようにん)となりました。

薩摩藩では島津重豪の蘭癖や、重豪の娘茂姫が11代将軍の正室となっていたことなどからとかく物入りで、文化4年(1807)に126万両であった借金は、どんどん増加していきました。

そして、文政10年(1827)調所広郷は、島津重豪から財政改革を託されましたが、その時の薩摩藩の借金は500万両の巨額に達していました。

その対策として、奄美大島、徳之島、喜界島三島の砂糖専売政策をとり、三島砂糖の自由な売買を厳禁し、生産された砂糖をすべて薩摩藩が買い上げ、違反した者は死刑などの極刑が課せられました。

買い上げ代金は金銭でなく現物で交換され、黒糖についても島民の日用品と交換する仕組みで、それを大坂市場価格の4分の1ぐらいで引き取った。

さらに、琉球を通して清との貿易を幕府に許してもらうほか、蝦夷地産の昆布などの密貿易を行うなどして、利益をあげていきました。

さらに、調所広郷は、贋金づくりにまで手を染めています。

こうした政策をとって収入を安定させたうえで、天保6年(1835)大坂・京都の銀主に対しては藩の借金500万両を25年で返済するという実質借金踏み倒しを言い渡し、債務整理を強行しました。

調所広郷といえば、この500万両の借金の踏み倒しが有名ですが、一度借金を踏み倒せば、次のお金に困った時には絶対借金ができなくなるので、安易に借金踏み倒しができるわけではありません。

ですから、調所広郷が財政改革を任せられて、すぐに借金踏み倒しを実行したわけではなく、周到な準備をしたあとで、断行したことに留意しておく必要があるように思います。

この借金踏み倒しで、大坂の両替商たちから大坂の町奉行に訴訟が起こされていますが、調所広郷自身は、処罰されることはありませんでした。

こうしてみごとに財政改革に成功し、天保末期には藩庫に備蓄された金50万両のほか、貧窮の際にはまったく手が付けられなかった藩邸などの修理や営繕を行ない、その費用は200万両余に達したといいます。

こうした財政改革の功により家老となり、島津斉興を助けました。しかし、嫡男島津斉彬とは意見があいませんでした。

今後、「西郷どん」でも、史実通り、島津斉彬とは対立を深めていく展開になるものと思います。


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# by wheatbaku | 2018-01-15 23:28 | 大河ドラマ | Trackback
「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩⑧」田端駅編

「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩⑧」田端駅編

昨日は、毎日文化センターの江戸散歩講座「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」がありました。

 この江戸散歩は、山手線の各駅をスタート地点として、駅周辺の江戸にゆかりの史跡を訪ね歩くもので、この秋は、第2ステージに入っています。昨日は、田端駅を出発して谷中七福神を散歩してきました。

 昨日は、今季最大の寒波襲来ということで厳重な防寒対策をして散歩を始めましたが、気温は低いものの風がまったくなく快晴のもとでの散歩となり、快適な散歩となりました。ご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。下写真は、スタートの東覚寺での説明風景です。

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昨日のコースは次の通りです。(赤字が谷中七福神です。)

田端駅 ⇒ 東覚寺(福禄寿) ⇒ 与楽寺 ⇒ 向陵稲荷と開成高校 ⇒ 青雲寺(恵比寿) ⇒ 修性院(布袋) ⇒ 谷中銀座(休憩) ⇒ 天王寺(毘沙門天) ⇒ 長安寺(寿老人) ⇒ 観音寺築地塀 ⇒ 自性院(愛染寺) ⇒ 護国院(大黒天) ⇒ 上野公園(黒田記念館、博物館動物園駅跡、さくらぎばし跡、藤堂家墓所、上野動物園旧正門、お化け燈籠、時の鐘、花園稲荷神社、五条天神社) ⇒ 不忍池弁天堂(弁才天)

谷中七福神については、先日にこのブログに書きましたので、今日は、それ以外の案内場所を紹介します。

東覚寺の赤紙仁王

谷中七福神の福禄寿をお祀りしている東覚寺で有名なのが、門前の赤紙仁王です。

石造金剛力士立像は、全身に赤紙が貼られているので、通称赤紙仁王とも呼ばれています。

寛永18(1641)、宗海というお坊さんが願主となって江戸市中に流行していた疫病を鎮めるために造ったと伝えられています。

身体の悪い人が、悪い部分に赤紙を貼って祈願すれば、病気が回復すると信じられ、現在も、なお、祈願する人が多く、赤紙が一杯貼られていて、元の仁王様の姿がみえません。(下写真)

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与楽寺

与楽寺は、江戸六阿弥陀の一つで、六阿弥陀4番として知られています。阿弥陀様は、阿弥陀堂に安置してあります。門前には、向かって左側に「六阿弥陀第四番与楽寺」と刻まれた石柱があります。

また、ご本尊は地蔵菩薩像ですが、弘法大師作といわれ、「賊除け地蔵」と呼ばれています。現在は秘仏になっていますが、むかし、この寺に、ある夜盗賊が押し入りましたが、多くの僧が出て来て、賊を追い払ってしまいました。翌朝ご本尊のお地蔵様の足が汚れていたので、お地蔵様が僧となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになりました。それ以来、御本尊様は、「賊除け地蔵」と呼ばれるようになりました。下写真は、本堂まで説明を聞かれる参加者の皆さんです。

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滝沢馬琴の筆塚
 青雲寺は、谷中七福神の「恵比寿様」をお祀りしています。

境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑、硯塚の碑、日暮里船繋松の碑があります。

硯の形をしている硯塚は、本堂前の植え込みにあり、寛政10年(1798)に建てられたものです。裏面に「春の雪 跡や煙の 麦畑」の句が刻まれています。

滝沢馬琴の筆塚は、馬琴が残した多量の使い古しの筆を供養するため、文化6年(1809)に建てたものです。 筆塚脇の説明文には「この碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちと業績が記されていて、国学・漢学・考証学者で有名な狩谷棭斎が額字の『瘞聿冢名(ふでをうずめしつかのめい)』を書き、由来は儒学者亀田鵬斎が撰文して筆をとった」と書いてあります。下写真は、筆塚での説明を聞かれる参加者の皆さんです。

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観音寺の築地塀
 谷中を代表する風景に観音寺の築地塀があります。

観音寺の築地塀は、観音寺の境内の南端にある江戸時代に築造された土塀です。土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に屋根瓦をふいたものでいわゆる「練り塀」と呼ばれています。長さは約38mあります。平成4年に「台東区まちかど賞」を受賞しました。

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自性院(愛染寺)
 自性院は、本堂に安置した愛染明王像で知られ、江戸時代中期頃から別名愛染寺といわれました。非公開の愛染明王像は、寺伝によれば、江戸時代中期の頃の御住職が境内の楠を切り彫刻した高さ1メートルの像で、像内には、御住職が高野山参詣のとき、奥院路上で拾った小さな愛染明王が納められていると伝えられているそうです。

愛染明王は、特に縁結び、家庭円満の仏様で、川口松太郎は、ここの愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントに『愛染かつら』を創作したと言われています。

御住職のお話によると、川口松太郎は、小説家津村京村の法事の際に自性院を訪れた際に、御本尊右手にあった愛染明王と本堂前の桂の木を知ったのがきっかけだそうです。。映画『愛染かつら』では、自性院は谷中の『エイホウ寺』として描かれています。

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上野動物園旧正門と藤堂家墓所

 下の写真で参加者の皆さんが、門の柵越しに何かをみています。

実は、柵越しに津藩藤堂家の墓地をみているのです。

手前の門は「上野動物園旧正門」で、明治44年に建てられたものです。  

上野動物園の中を柵越しに見ると、先に大きな古いお墓が見えます。

それが、藤堂高虎はじめてとする藤堂家累代のお墓です。

上野動物園はもともと藤堂高虎の下屋敷に建てられた藤堂家の菩提寺「寒松院」があった場所に開設されました。そのため、藤堂高虎のお墓で上野動物園の中にあります。

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不忍池弁天堂
 谷中七福神の最後、不忍池弁天堂に着いたのは夕闇が迫るころになりました。

不忍池弁天堂は、寛永年間に、天海大僧正によって建立されました。

天海大僧正は、「見立て」という考えによって、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てて、寛永寺を新しく創りました。

自然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった小さな島を竹生島に見立て、竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立しました。

琵琶湖と竹生島に見立てられていたため、当初は弁天堂に参詣するにも船を使用していましたが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられました。 

御本尊の弁才天は秘仏で、年に一度だけ、9月の巳成金(ミナルカネ)大祭(2018年は9月22日)に開帳されます。

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この後、恒例の懇親会を上野で行って、家に帰りついたのは10時を回っていました。

散歩および懇親会にご参加いただいた皆さん、お世話になりました。ありがとうございました。


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# by wheatbaku | 2018-01-14 10:56 | Trackback
西郷隆盛銅像

 西郷隆盛銅像

 「西郷どん」の冒頭は、西郷隆盛の銅像の序幕式の場面からスタートしました。

 そこで、今日は、上野の西郷隆盛の銅像について書きます。

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 西郷隆盛は、西南戦争を起したため、朝敵とされていましたが、明治22年に大日本帝国憲法が発布された際に大赦が行なわれ正三位の追贈が決定したのを期に、銅像建立の動きが本格化しました。その中心となったのが西郷隆盛の親友の吉井友実です。 

 西郷隆盛の銅像が上野公園に建てられるには紆余曲折がありました。

西郷隆盛の銅像は、当初、皇居外苑に設置したいという計画もありましたが、最終的に上野公園に建てることとなりました。

服装も、当社は陸軍大将の軍服を着た銅像が検討されましたが、最終的には、現在のような服装となりました。

西郷隆盛の銅像の除幕式は明治311218日に時の総理大臣、山県有朋、勝海舟、大山巌、東郷元帥等800名が参加して盛大に行われました。

その除幕式でこの像を見た西郷の妻である糸子は、「うちのひとはこんなひとじゃなかった」とつぶやいたといわれています。

これが「西郷どん」の冒頭場面です。 

このつぶやきは、西郷隆盛の顔が違うという意味だとも、人前に着流しででることはなかったという意味だとも言われています。

さて、この西郷隆盛の銅像は散歩をしているように見えますが、実は散歩をしている姿ではありません。

これは、愛犬をつれ、腰に兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿です。
 下写真は、腰まわりの拡大写真ですが、帯に兎を捕るための罠がはさんであるのがわかるでしょうか?

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この姿は大山巌が思いつたそうです。

軍服姿ではなく、こうした姿であるため、逆に庶民的になったともいえると思います。

西郷隆盛の銅像は、高村光雲により作られたと思う人が多いようですが、実は二人によって作られています。西郷隆盛は高村光雲、犬のほうは後藤貞行が作成したものでうす。

また、西郷隆盛の銅像は、東京三大銅像の一つに数えられています。

三大銅像とは、西郷隆盛の銅像のほか、靖国神社の大村益次郎像、 皇居外苑の楠木正成像です。

皇居外苑の楠正成像も高村光雲と後藤貞行のコンビで作られていて、大村益次郎の銅像は大熊氏広によって作られています。



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# by wheatbaku | 2018-01-11 13:28 | 大河ドラマ | Trackback
第1回「薩摩のやっせんぼ」(大河ドラマ「西郷どん」①)

第1回「薩摩のやっせんぼ」(大河ドラマ「西郷どん」①)

いよいよ「西郷どん」が始まりました。

久しぶりの江戸がらみの大河ドラマですので、今年は「西郷どん」についても、このブログで書いていこうと思います。

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昨日は、西郷隆盛の少年期における島津斉彬との出会いが重要な場面ですが、この時期に西郷隆盛は島津斉彬とは巡り会っていないようですので、フィクションとして楽しませてもらいました。

西田敏行さんのナレーションで「この年、島津斉彬が薩摩に居たという記録はありません。小吉があったのは天狗だったのか、影武者だったのか、それとも・・」と非常に良心的なコメントをいれてあるのが印象的でした。

さすが時代考証に原口泉先生が入られているだけに、丁寧に作られているという印象で、今後のドラマの展開が楽しみとなりました。

西郷隆盛は、文政10年(1827)鹿児島の下鍛冶屋町で生まれました。

この下鍛冶屋町で生まれた西郷隆盛と同世代の人々が、のちに幕末から明治にかけて大活躍します。

そこで、今日は、どんな人々が、同じ下鍛冶屋町で生まれ育ったのか、『評伝西郷隆盛』(安藤英男著)『図解でわかる西郷隆盛』(木村武仁著)を参考に紹介しようと思います。

まず、なんといっても大久保利通です。いうまでもありません。西郷隆盛の盟友で、西郷隆盛とともに維新三傑に数えられていますし、「西郷どん」でも重要は役回りとなるようです。

大久保利通の号は、「甲東」といいますが、これは、下鍛治屋町の脇を流れる甲突川の東という意味だそうで、育った下鍛冶屋町に愛着を感じていた証拠のように思えます。なお,大久保利通は生まれたのは、下鍛冶屋町の対岸の高麗町です。

大山巌は、西郷隆盛の従兄弟です。幕末には砲術家として活躍し「弥助砲」という大砲を考案したりしています。明治になっては、日露戦争の際に満州軍総司令官となるなど陸軍で活躍しました。

日露戦争で、陸で活躍したのが大山巌であれば、海は東郷平八郎ということになりますが、いうまでもありません。日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破した連合艦隊司令長官です。この東郷平八郎も下鍛冶屋町で生まれ育っています。

西郷隆盛の隣家に住んでいたのが、吉井友実です。吉井友実は、西郷隆盛の大親友です。明治になって宮内次官となり明治天皇のそばで仕えました。上野の西郷隆盛の銅像建設にあたっては、中心人物として東奔西走しました。

西南戦争で、西郷隆盛に従って一緒に戦った篠原国幹と村田新八も、同じ下鍛冶屋町出身です。

その他、明治元年の会津戦争の際に新政府軍の参謀として活躍した伊地知正治も、同じ町内で育ちました。また、日露戦争の際に、第一軍司令官として活躍した黒木為楨もここで育ちました。

このように明治になって日本を動かした人々が、下鍛冶屋町の郷中で切磋琢磨しつつ、育っていきましたが、西郷隆盛は年長でしたので、西郷隆盛を中心に強い絆が結ばれていきます。

これが、のちに2回の島流しにあうという悲運にあいながらも、西郷隆盛が復活するエネルギーとなっていったようです。


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# by wheatbaku | 2018-01-08 09:55 | 大河ドラマ | Trackback
谷中七福神巡り

谷中七福神巡り

 昨日、谷中七福神めぐりをしてきました。

 毎年、年初には七福神めぐりをしていますが、年に1か所だけですので、なかなか、東京の七福神めぐりを完了できませんが、のんびり、やっていこうと思っています。

 谷中七福神は、過去にお参りしたことがありますが、今月の毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で案内するので、その下見を兼ねてのお参りとなりました。

 谷中七福神は、江戸最古の七福神と言われています。

 護国院の作成した説明書では、七福神を創設したのが天海大僧正であると書いてあります。また、『江戸学事典』では、江戸の七福神参りは、谷中七福神が最初で戸時代後期の享和年間(1801

年~1804年)頃に始まったと書いた書物があると書いてあります。

一方、北区史によれば、谷中七福神は、安永年間(1772年~1781年)に開設されていたことが確認できると書いてあります。


 谷中七福神の拝観期間は、11日から10日までの10日間です。

 この期間だけ、不忍池弁天堂の弁才天を除く七福神が公開され拝観することができます。御朱印をいただくことができるのもこの期間だけです。

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 谷中七福神は、上野の不忍池弁天堂から巡るコースと田端の東覚寺から巡るコースがありますが、私は、田端の東覚寺から巡ってきました。
 谷中七福神は、さすが有名なだけに多くの参拝客でにぎわっていました。掲載した写真は、あまり人のいないタイミングの写真ですが、各寺院とも御朱印をいただく列ができていて、御朱印をいただくにはちょっと時間がかかりました。

東覚寺(とうかくじ) 福禄寿

 田端駅から5分ほどの所にある真言宗豊山派の寺院で福禄寿をお祀りしています。

 東覚寺は、「赤紙仁王」があることで有名です。

 「赤紙仁王」は、寛永18年(1641)に僧・宗海が疫病を鎮めるために建てたといわれる石の金剛力士立像で、病のある場所と同じ部位に赤紙を貼って祈願すると病気が治るといわれています。

 ここで、和紙でつくられた台紙1000円を購入しました。和紙には東覚寺の御朱印が押されていた200円もあわせて支払いました。

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青雲寺 恵比須

 東覚寺から徒歩約15分で青雲寺です。

 青雲寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、恵比寿様をお祀りしています。

 境内には「南総里見八犬伝」の作者として有名な滝沢馬琴の筆塚の碑や硯塚の碑などがあります。

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修性院(しゅうしょういん) 布袋

 青雲寺から徒歩2分程度です。

 日蓮宗の寺院で、布袋様がお祀りされています。この布袋様は、本堂に祀られていますが、「ひぐらしの布袋」と呼ばれ、人々に親しまれている布袋様です。

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天王寺  毘沙門天

 修性院から、直行すれば、約12分ですが、途中に谷中銀座があるため、そこで、一休みしてから、天王寺に向かいました。

 天王寺は、天台宗のお寺で、毘沙門天様がお祀りされています。毘沙門天様は、本堂とは別の毘沙門堂にお祀りされています。

 天王寺は、江戸時代に「富くじ」が興行され、江戸の三富と呼ばれるほど、大変にぎわったお寺として有名です。

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長安寺  寿老人

 天王寺から徒歩5分です。

 長安寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、寿老人がお祀りされています。寿老人は、本堂内に入ると左手の天井近くの高いところにお祀りされています。

 また境内には、明治の日本画家狩野芳崖のお墓があります。

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護国院 大黒天

 長安寺から徒歩約10分です。

 護国院は、天台宗のお寺で、大黒天がお祀りされています。大黒天は、本堂の正面にお祀りされています。大黒天の像の後ろ側に3代将軍家光から拝領した大黒天画像がお祀りされていて、江戸時代に、護國院大黒天として信仰を集めていましたが、この画像は非公開です。

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不忍池弁天堂 弁才天

 護国院から15分以上かかります。谷中七福神の案内図では、清水坂を通っていくルートが案内されていますが、この道は狭い道で、歩道も整備されていない部分がありますので、上野公園を通って弁天堂へ向かいました。

 弁天堂に着いた頃は、夕暮れ時となっています。

 弁天堂には大勢の参拝客がいました。

弁 天堂は、寛永寺が管理しているお堂です。弁才天は、年に1度だけ、9月に行われる「巳成金(みなるかね)大祭」の日だけ開帳されるので、今回はお目にかかることができませんでした。

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# by wheatbaku | 2018-01-05 12:36 | 七福神めぐり | Trackback
『風雲児たち~蘭学革命篇~』を見ました。(『蘭学事始』⑧)

『風雲児たち~蘭学革命篇~』を見ました。(『蘭学事始』⑧)

元旦午後7時20分から放映された『風雲児たち~蘭学革命篇~』をご覧になりましたか?

『風雲児たち~蘭学革命篇~』は、『ターヘル・アナトミア』を翻訳し『解体新書』を出版した前野良沢と杉田玄白の苦闘を描いた時代劇でした。

 原作が、みやもと太郎さんのギャグ漫画『風雲児たち~蘭学革命篇~』(下写真)ですし、脚本が三谷幸喜さんですので、お笑いの要素がかなり強いのかと思っていました。

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しかし、あにはからんや、非常にまじめなものに仕上がっていました。

前野良沢と杉田玄白のオランダ語翻訳の困難を乗り越えていく様が非常にわかりやすく描かれていました。

また、前野良沢と杉田玄白の考え方の違いが明確に描かれていました。

しかも、年後の杉田玄白の還暦のお祝いに招待された前野良沢と杉田玄白が、恩讐を超えて、がっちりと手を取り合う感動の場面で終了しました。

感動の名作といってもよいと思います。

年末から書き始めている『蘭学事始』シリーズは、まだ数回書くつもりですが、今日は、前野良沢を中心に、『風雲児たち~蘭学革命篇~』に出てきた場面の補足説明をしていきます。

『風雲児たち~蘭学革命篇~』では、前野良沢と杉田玄白の『ターヘル・アナトミア』の翻訳に対する考え方の違いが鮮明に描かれていました。これも良かったと思います。

前野良沢が、『解体新書』の刊行には不賛成であったのは、完璧に翻訳できた後で出版すべきだと考えていたからです。前野良沢は、学究肌の人だったようです。一方、杉田玄白は、不十分であっても世間に発表することが大事だという考えでした。

その結果、前野良沢の名前が『解体新書』から消えることになりました。

そのため、『解体新書』は杉田玄白が翻訳したように見えることになります。

『解体新書』に前野良沢の名前が載らなかったことによって、二人の晩年は大きな差が出ることになります。

『風雲児たち~蘭学革命篇~』では、杉田玄白の還暦のお祝いに、前野良沢が招かれるという場面で始まり、最後は、その場面で終わりました。

記録によれば、寛政4年(1792)には、杉田玄白が還暦となり、前野良沢は古稀を迎え、実際に二人のための賀宴が開かれています。

しかし、この時の二人を取り巻く環境は、『風雲児たち~蘭学革命篇~』で描かれたように、杉田玄白は、『解体新書』の出版以降、杉田玄白は、非常な名声を博していた一方で、前野良沢の晩年は必ずしも恵まれたものではありませんでした。

前野良沢は子供一男二女がいました。そのうち長女(『風雲児たち~蘭学革命篇~』では富士子となっていました)は、『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業中になくなります。

そして、男子が一人いました。この子は『風雲児たち~蘭学革命篇~』には出てきませんでしたが、良庵と呼ばれ、前野良沢期待の子供でした。しかし、前野良庵は、寛政3年7月に若くして亡くなり、そして妻珉子も半年後に後を追うように亡くなってしまい。前野良沢に残されたのは2女(峰子)だけでした。

前野良沢は、晩年は、築地の藩邸を出た後、根岸の借家で暮らし、最後は二女の家に引き取られて、そこで亡くなったと考えられています。

寂しい晩年をおくったことでわかるように前野良沢の名声は、当時の杉田玄白が得ていた名声より低くいものでした。

しかし、後世の人たちが、『解体新書』の真の翻訳者である前野良沢の評価を見落としていたわけではありません。

大分県教育委員会発行の『郷土の先覚者シリーズ 前野良沢・朝倉二三男』によれば、明治234月に東京で開かれた日本医学会では、前野良沢・杉田玄白・桂川甫周・大槻玄沢・宇田川玄随・宇田川玄真を祭る式典が行われ、その6人の中で、特に前野良沢に追贈を求める決議がされ、明治26年に前野良沢に正四位が追贈されました。

ちなみ、杉田玄白には正四位の追贈が行なわれたのは明治40年のことでした。

こうした事実を知るとほっとします。

長女がなくなった時に、前野良沢が笛を吹いていました。

これも感動的だった思いますが、この笛を尺八だと多くの人が思うと思いますが、前野良沢が奏でていたのは「一節切(ひとよぎり)」という種類の笛です。

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尺八を同じように一尺八寸の長さがありますが、上から四寸あまりの所に一つだけ節があることから「一節切(ひとよぎり)」という名前がつけられたといいます。

前野良沢は、幼いころに父がなくなり母とも別れたため、叔父の淀藩宮田全沢に預けられますが、この宮田全沢から「人間というものは世間ですたれてしまう芸能を習って後世に伝えるようにすることと普通の人がしないことを実行して世のため後世に残るようにすべきである」と教えられました。

この教えがオランダ語の研究に大きな影響を与えたとされていますが、前野良沢が「一節切(ひとよぎり)」を習うようになったのも、この宮田全沢の教えが大きく影響していると言われています。

前野良沢は、生涯、「一節切(ひとよぎり)」を愛していました。

『風雲児たち~蘭学革命篇~』で、長女が亡くなった時に、前野良沢が「一節切(ひとよぎり)」が吹いていましたが、前野良沢は、「一節切(ひとよぎり)」を吹くことでしか悲しさを表現できなかったということだと思います。


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# by wheatbaku | 2018-01-02 23:13 | Trackback
新年あけましておめでとうございます。

新年あけましておめでとうございます。

皆様には、よき新年を迎えられたことと

お慶び申し上げます。

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 今年は、このブログを書き始めて10年目になります。

 そして、御蔭様で、前半には、いよいよ累計来場者数が100万人になる見込みとなりました。

 日頃のご愛読に感謝しながら、今年も、一生懸命記事を書いていこうと思っています。

 現在は、元日にNHKで午後7時20分から放送される正月時代劇『風雲児たち』に関して『蘭学事始』に関する記事を書いていますが、今年の大河ドラマは「西郷どん」ですので、放映にあわせて、西郷隆盛の記事を書いていこうと思っています。

 また、毎日文化センターで開講している「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」も第3ステージに入りますので、山手線の各駅周辺の史跡についてもご紹介しようと思っています。

 また、文京学院大学生涯学習センターで2月に「江戸の町奉行」7月に「江戸の火消」に関する江戸講座の講師をさせていだきますので、「町奉行」と「火消」に関する記事も書く機会があると思います。

 今年も、「江戸」にこだわって、記事を書いていこうと思います。

 本年もどうぞよろしくお願いします



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# by wheatbaku | 2018-01-01 10:07 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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