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気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録
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江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)

by wheatbaku
お知らせ
24.1.6
 今年の江戸文化歴史検定の「今年のお題」は『徳川将軍15代』となりました。
 このお題に関係する記事を「徳川将軍15代」というカテゴリーで書いていきます。
 江戸文化歴史検定を受験しようと考えている人のお役にたてば幸いです。


23.11.26 毎日文化センターさんの「気ままに江戸探訪~スカイツリーの見える下町で江戸を探す」 が開講しました。

23.5.28 毎日文化センターさんの「お江ゆかりの地を行く~気ままに江戸探訪」 が開講しました。


23.5.17
『江戸文化歴史検定協会の公式ブログ「大江戸見聞録」
に「江戸三十三観音めぐり」の第4回「回向院」を掲載しました。


23.4.5
『江戸文化歴史検定協会の公式ブログ「大江戸見聞録」
に「江戸三十三観音めぐり」の第3回「大観音寺」を掲載しました。


22.9.23  
『WEBサライ』の特集「桜田門外の変」の取材に協力しました。
『WEBサライ』をご覧ください。



 
21.6.4
日経BP社が運営している日経BPネットの[SECOND  STAGE ]の「大人のブログ探訪」というコーナーで紹介されました。

☆こちらから見られます⇒
大人のブログ探訪

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小栗忠政(家康公伝 徳川将軍15代)
 一向一揆を収めた家康は、昔からの門徒は赦免し一代限りの門徒は罪に処するという約束になっていました。
 しかし、多くのものは昔からの門徒も処罰すべきだと言いましたが、家康は、昔からの門徒は処罰しませんでした。

 その、許された門徒の中に、小栗忠政がいました。その忠政の逸話が、家康公伝に書かれています。

  一揆が収まり、小栗又一忠政が出てきました。
 すると家康は忠政の胸ぐらをつかみ「お前は宗門を改めるかさもなくば刺し殺す」と刀を抜いた言いました。しかし忠政は「御手打ちになろうと改宗はできません」といったので、「お前のようなものは殺しても無益である」といって突き放された。
 忠政は、突き放された瞬間に「今こそ法華宗に改宗します」と言いました。
 家康は咎めて、「手討ちにあっても改宗しないといった矢先に、次は法華宗に改宗するというのは何事か」と言うと、忠政は「侍たるものが手討ちを恐れて改宗するでしょうか。ただ一命をお助けくださるというお言葉に感謝申し上げるために法華宗に改宗すると申しました」と言うと、家康は思わず笑ったと書かれています。

 この小栗忠政は、その後の逸話編にも出てきます。
 元亀元年(1570年)、姉川の戦いの際に若輩ながら奮戦します。
 家康公伝3には次のように書かれています。

 小栗又一忠政は、最初庄次郎と名乗っていたが、この戦の時わずか16歳であった。敵兵の一人が家康の側近くに忍び寄ってくるのを見つけ、とっさに御物(ぎょぶつ)の信国(のぶくに)の槍を取って渡り合っている討ちに、家康の軍勢が集まって、ついに敵を討ちとった。
 家康は庄次郎がまだ年若いにもかかわらず起点がきくのを褒めて「今日の功は一番槍をもしのぐ」とその槍を与えになった。その後も度々戦いにおいて一番槍を入れたので、家康が「又一か」とおっしゃるので、小栗は「又一」と改めたという。


  小栗忠政は、最初の通称であった「又市」を家康の「又もや一番槍」の評価をこめて「又一」の名と変えたと言われていることは、東照宮実紀に書いてあtったのです。

 この小栗忠政のお墓が、さいたま市大宮区大成町の普門院にあります。JR大宮駅から徒歩15分ぐらいです。
 本堂の裏側に小栗忠政一族の墓所がありました。(左上写真)
 ここには小栗本家・分家併せて30基に及ぶ一族の墓があります。
 墓所の一番左手奥に小栗忠政のお墓(右写真)があり、向かい側に夫人のお墓があります。
 武蔵国足立郡大成村は、小栗忠政が家康から拝領した土地です。忠政は、大成村550石を含めた2,550石を与えらました。
 小栗忠政は、普門院を復興し、小栗家の菩提寺としました。

  忠政が没した後、延宝元年(1673)から明和5年(1768)までは天領となりましたが、再び小栗家が拝領し、明治維新を迎えるまでこの地を治めました。
 
 幕末の外国奉行や勘定奉行など要職を歴任した小栗上野介忠順(ただまさ)は、小栗忠政の子孫で小栗本家の12代当主です。
 小栗忠政の墓の手前に小栗上野介の首塚(左写真)がありました。
 しかし、自然石に何も書いていないので見た目にはお墓とはわかりません。
 小栗上野介のお墓は高崎市倉渕町権田の東善寺にもあるそうです。


# by wheatbaku | 2012-02-01 08:10 | 徳川将軍15代 | Trackback | Comments(0)
三河一向一揆(家康公伝  徳川将軍15代)
 徳川実紀の現代語訳「家康公伝」の逸話編の話を続けます。
 今日と明日は、「一向一揆との戦い」について書きます。

 戦国時代には、浄土真宗いわゆる一向宗の力が増し、各地で一向一揆が起こりました。
 最も力が強かったのが北陸地方で、加賀は一向宗が支配するほどでした。
 この一向一揆が三河でも起こり、徳川家康を苦しめることになりました。

  永禄6年9月、菅沼定顕が上宮寺に兵糧を強制的に徴発しました。これに対して、松平広忠が認めていた「不入権」を侵害された上宮寺は、勝鬘寺、本証寺とともに菅沼屋敷に押しよせ狼藉を働きました。
 これに対して家康は詰問状を突き付けたところ一向宗側は詰問状をはねつけ一揆を起こしました。

 上宮寺、勝鬘寺、本証寺は三河三箇寺と呼ばれ一向宗の中心寺院です。
 右写真は、本証寺です。現在の安城市にあります。

 この一揆側には、上野城主松平忠尚、足利一族の東条城の吉良義昭、家康の異母妹市場姫の夫荒川義広らも加わりました。
 そして、有力門徒である石川、本多ら家康の家臣で、一揆側に加わったものもいました。

 東照宮実紀本編の現代語訳すなわち「家康公伝1」では「小坂井、牛窪の新しい要塞に兵糧米を備蓄することになったが、御家人たちが上宮寺から籾をむやみに取り入れたので、一向専修の門徒たちは突然蜂起することがあり、譜代の御家人のなかにはこれに味方するものが少なくなかった」と書いてあります。

 しかし、一揆側に加わった門徒は弱小の小領主が多かったようです
 それに対して、一向宗の門とでも有力門徒は家康方につきました。有力門徒は家康の重臣でもありました。
 石川家成、石川数正、本多重次、本多忠勝、内藤清長、天野康景らは、宗派を浄土宗に改宗して家康につきました。
 
 一揆方は結束が固く、死も畏れないうえに、門徒の三河武士まで加わったので、一揆側は強力でした。
 家康は、必死になって戦いました。
 永禄7年1月、一揆側は、家康の本城岡崎城攻撃をめざして、岡崎城の南方にあり大久保一党が守る上和田城攻め立てました。
 この上和田の戦いで、一揆側が多勢で攻め寄せてきて、味方が苦戦に陥った時には、家康は自ら単騎で出馬し味方を救いました。
 徳川実紀の逸話編によると「家康の冑に銃弾2発が飛んできたが、鎧が堅かったので突き通さなかった」と書いてあります。
 この和田城の戦いを機に、家康は一揆側を追い込み、一揆側から和議の申し出がありました。家康は和議を結び、半年間続いた一揆は鎮圧されました。
 家康は、この後、和議を反故にし、一揆衆を完全に解体させた後、一向宗の寺院に他宗への改宗を迫り、これを拒んだ場合は破壊しました。こうして19年後の天正11年(1583年)まで、三河での一向宗を禁止しました。
 また、一揆を煽動した酒井忠尚、吉良義昭らは三河国外へ逃亡しました。
この戦いは、家康にとって大きな試練でしたが、この戦いに勝利したことによって三河統一の基礎をしっかりと固めることができました。
# by wheatbaku | 2012-01-31 08:56 | 徳川将軍15代 | Trackback | Comments(0)
浅草散歩
 一昨日の土曜日は毎日文化センターさんの「スカイツリーの見える下町で江戸を探す」の第2回浅草散歩があり、受講生の皆さんと浅草寺を散歩してきました。

 昨日のコースは次のように、浅草寺オンリーの散歩コースでした。
 雷門 ⇒ 仲見世 ⇒ 梅園 ⇒ 金龍山浅草餅 ⇒ 助六 ⇒ 平内堂 ⇒ 宝蔵門 ⇒ 五重塔 ⇒
弁天堂 ⇒ 時の鐘  ⇒ 水舎 ⇒ 本堂外陣 ⇒ 本堂内陣(観音様お参り)⇒ 浅草神社 ⇒ 二天門 
 ⇒ 石橋 ⇒ 影向堂 ⇒ 六角堂 ⇒ 銭塚弁天堂 ⇒ 淡島堂 ⇒ 新奥山 ⇒ 慈雲の泉 ⇒ 鳩ぽっぽの碑 ⇒ 迷子のしるべ石 ⇒  仲見世散歩 ⇒ 懇親会
 浅草からは、スカイツリーが真近にみられるます。いろいろなヴューポイントがありますが、右上の写真は、宝蔵門脇から見たスカイツリーです。
 
 浅草寺はお正月ですので、大勢の人が参詣していました。
 東日本大震災の影響で、一時、減少していた参拝客も戻ってきたと仲見世の人たちがおっしゃっていました。
 また、同じく東日本大震災の影響で大幅に減っていた中国など外国からの参拝客も戻ってきていて中国語が飛びかっていました。

 今年の干支は辰年です。浅草寺の山号は「金龍山」です。そこで、浅草寺にいる「龍」を次々と御案内しました。
 その主なものを紹介します。
 まず宝蔵門の大提灯の下に彫られている龍です。
 雷門の大提灯や本堂の大提灯の下にも彫られています。
 これらの龍は木彫士の渡邉崇雲さんが彫ったものです。


 お水舎の天井には「墨絵の龍」が描かれています。東韻光さんが書いたものです。
 この龍の絵もほとんどの人が気が付きません。
 お水舎の真ん中には、高村光雲作の龍神像(沙竭羅(さから)龍王像)がまつられています。明治36年に作られたものです。


 本堂の天井には川端竜子画伯(昭和34年文化勲章受賞)による「龍」の絵があります。
 左右は堂本印象画伯(昭和36年文化勲章受章)による「天人の図」があります。
 縦6.4メートル、横4.9メートル 畳19畳の大きさがあります。



  浅草神社は、浅草寺のご本尊をお祀りした土師中知、檜前浜成・武成の3人をお祀りしています。
 浅草神社では、ちょうど結婚式が行われていました。
 いつもは案内が終わるとすぐにニ天門に行くのですが、今日は、花嫁がでてくるのを待っていました。
 そして、記念撮影の時に、シャッターをきりました。
 大勢の観光客もシャッターをきっていました。
 中国からの観光客も大喜びでした。
 お名前はわかりませんが、新婚のお二人の幸せを願います。

 浅草神社のお祭りは「三社祭り」ですが、今年の三社祭りは、三社祭りが行われて700年になるのを記念し、3月18日に船渡御が復活される予定です。


# by wheatbaku | 2012-01-30 08:20 | Trackback | Comments(0)
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