江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)


by 夢見る獏(バク)
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雑司ケ谷霊園に眠る有名人の最終回です。

 「駅から気ままに江戸散歩」でご案内したお墓以外で私が注目した有名人をご紹介しておきます。

 

小川笙船  江戸時代の医者

小川笙船のお墓は、1-5-4 にあります。

c0187004_09451058.jpg小川笙船は、最初、小石川の光岳寺に葬られ、後に雑司ヶ谷霊園へ改葬されました。

小川笙船のお墓は、墓碑中央に「家族之墓」と刻まれていて、その左側に「小川笙舩藤廣正」と刻まれているだけなので注意深く探す必要があります。

小川笙船は、目安箱に養生所を設置するよう投書し、それを見た徳川吉宗が大岡忠相に養生所設立の検討を命じ、石川御薬園内に養生所が設立されました。

小川笙船は養生所の肝煎に就任しました。

その後、養生所の肝煎には、小川笙船の子孫が代々なっています。



荻野吟子  日本最初の女性医師

 荻野吟子のお墓は、1-5-23 にあります。

c0187004_09452148.jpg 荻野吟子の墓地には、荻野吟子の石像がありますので、すぐに見つかります。

 荻野吟子は、近代日本最初の公認女性医師で、埼玉県生まれであるため、埼玉県では郷土の偉人の一人として顕彰しています。

最初の結婚で夫から淋病を移され、東京の順天堂医院に受診した際、男性医師に診察されることに抵抗を感じ、医師になる決心をしたと言われています。

しかし、女性で医師になるのは難しく、苦難の道を歩みましたが、ついに明治18年試験に合格、日本における女性の第一号医籍登録者となりました。東京で開業ののち、北海道に渡り開業しました。

埼玉県熊谷市には「荻野吟子記念館」があります。自宅からあまり遠くないのですがまだ訪ねたことがないので、機会をみて、訪ねてみたいと思っています。



いずみたく 作曲家、政治家

 いずみたくのお墓は、1-5-34 にあります。

c0187004_09452541.jpg いずみたくの本名は今泉隆雄といいますので、「今泉家」と刻まれています。

(右写真では「今」の字が隠れてしまっています)

 いずみたくは、『夜明けのうた』『世界は二人のために』『恋の季節』など歌謡曲のヒットも多い作曲家です。

 しかし、政治にも関心があったようで、青島幸男が参議院議員辞職した際に、繰り上げ当選で第二院クラブの参議院議員となっています。



竹久夢二  画家・詩人

竹久夢二のお墓は、1-8-9 にあります。

c0187004_09490546.jpg入口には道標がありますので、すぐにわかります。

それだけ、参拝者が多いということだと思います。

丸い形をした墓碑には有島生馬に依る揮毫「竹久夢二を埋む」と刻まれています。

c0187004_09492375.jpg戒名は刻まれていませんが「竹久亭夢生楽園居士」というそうです。竹久夢二らしい戒名だと思います。

竹久夢二は、数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正ロマンを代表する画家です。

文筆の分野でも、詩、歌謡、童話などを作っていますが、『宵待草』には曲が付けられ愛唱曲となっています。

昭和9年、長野県八ケ岳山麓の富士見高原療養所で結核のため49歳の若さで死去しています。



東郷青児  洋画家

東郷青児のお墓は、1-15-19 にあります。

c0187004_09453046.jpgジョン万次郎の直ぐ隣になります。

東郷青児は、夢見るような甘い女性像の絵で有名です。

昭和の美人画家として戦後一世を風靡しました。

また、多くの女性を愛したことでも知られていて、作家の宇野千代も愛人でした。

宇野千代の『色ざんげ』は、東郷青児をモデルにしたものだそうです。

 今回紹介した有名人のお墓は、雑司ケ谷霊園に眠る有名人のごく一部です。
 ほかに大勢の有名人が眠っていますので、気候の良い時期に散歩がてら雑司ケ谷霊園に眠る有名人のお墓をお参りするのもよいかもしれません。




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# by wheatbaku | 2016-12-08 09:37 | Trackback




 雑司ケ谷霊園に眠る有名人について、今までは、毎日文化センターの「駅から気ままに江戸散歩」でご案内した人物を紹介してきましたが、今まで紹介した人たちのほか大勢の人がいます。今日は、そのほかの有名人のお墓を紹介しておきます。

 今週の土曜日には、また「駅から気ままに江戸散歩」があるため、その準備で時間が撮られてしまいますので、簡潔な紹介になることをお許しください。



大川橋蔵 映画俳優

c0187004_11065409.jpg 『銭型平次』で有名な大川橋蔵のお墓は、1-1-13側にあります。

墓碑は道路と平行に東向きに建てられていますし、表面には南無阿弥陀仏とだけ刻まれていますので、見つけにくいのですが、墓碑の脇に「如在」と刻まれた墓標が目印になります。

 こちらには大川橋蔵とはっきり刻まれています。



泉鏡花 明治大正昭和期の小説家

c0187004_11071481.jpg泉鏡花のお墓は1-1-13側にあります。大川橋蔵は北側の列、泉鏡花は南側の列にあります。

泉今日は、尾崎紅葉の門下生で、代表作に「高野聖」「婦系図」「歌行灯」などがあります。

「婦系図」は神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤すず)と同棲したものの、尾崎紅葉に叱られ、伊藤すずが一旦鏡花のもとを去った経験を一部取り入れた小説です。




東條英機 陸軍大将 元首相

c0187004_11070651.jpg 東條英機のお墓は1-1-12にあります。

 東條英機はいわずと知れた太平洋戦争開戦時の首相でした。そのため、戦後の東京裁判では、A級戦犯となり絞首刑とされました。

 A級戦犯の遺骨は海上に散骨されたため、遺骨は遺族に渡されていません。

 そのため、このお墓には遺骨がありません。

 なお、このお墓は東條英機の父東條英教が明治44年に浅草の清水寺から改葬した際に建てられたものです。



中村是公(これきみ) 官僚 夏目漱石の親友

c0187004_11071055.jpg 中村是公のお墓は1-2-10にあります。

中村是公は、東大を卒業後、大蔵省に入り、台湾総督府に勤めたのち、満鉄総裁となった後藤新平に起用されその副総裁となり、さらに満鉄総裁となりました。

満鉄総裁退任後は、勅選貴院議員、鉄道院総裁を歴任し、さらに大正13年東京市長となり震災復興に尽力しました。

この中村是公は、夏目漱石と第一高等中学校(のちの一高)で同期で、夏目漱石は「ぜこう、ぜこう」と呼び捨てにし、是公は是公で漱石のことを「金ちゃん」と呼ぶ親友だったそうです。




金田一京助  言語学者・国語学者

c0187004_11071481.jpg金田一京助のお墓は1-22-5にあります。

金田一京助は、岩手県に生まれ、東大を卒業し、東大・国学院大教授を歴任し、昭和29年文化勲章を受章しました。

金田一京助は、アイヌ語・アイヌ文学の研究で有名ですが、国語辞書も編纂して、私は学生時代に大変お世話になりました。

 また、同郷の石川啄木と親交があり、啄木の良き理解者でもあり、援助も惜しみませんでした。

 このほかにも有名人が眠っていますので、次回ご紹介します。











 







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# by wheatbaku | 2016-12-05 11:03 | 大江戸散歩 | Trackback

雑司ケ谷霊園に眠る有名人の第8回は、ジョン万次郎です。

c0187004_10585261.jpgジョン万次郎の墓碑銘は、本名の中濱萬次郎となっていますが、ここでは、ジョン万次郎と書いていきます。

 ジョン万次郎のお墓は 11519  にあります。

 

 ジョン万次郎については、井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』が大変有名です。私も中学校時代に読んだ記憶があります。

c0187004_11051920.jpg今回は、その話も思い出しながら、『ジョン・マンと呼ばれた男』(宮永孝著 集英社刊)に基づいて書いていきます。

中浜万次郎は土佐国中浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)に生まれました。

万次郎が14歳の頃、漁師仲間4人と共に漁に出て嵐に遭い、遭難し、無人島鳥島に漂着しました。今の伊豆諸島の鳥島だと考えられています。

鳥島で5カ月ほど暮らしました、暮らしたといっても、上陸した際に食料はもちろん、火おこし等の生活必需品もすべて海に流してしまったため、アホウドリを素手で捕え生で食べて命をつなぎました。そして、5か月後、たまたま近くを通ったアメリカの捕鯨船ジョンハウランド号に救助されました。

捕鯨船で救助された漂流者のうち年配の人達は寄港先のハワイで降ろされます。

その中で万次郎だけは、船長のホイットフィールドに見どころがあると気に入られ、そのまま一緒に捕鯨航海に出た後、アメリカ本土に渡りました。

万次郎は、アメリカで8年間過ごしましたが、帰国の願いを抑えがたく、ハワイに渡り、漁師仲間2人と共に上海行きの商船に乗り込み、日本近くまで来た段階で、小舟で琉球に上陸しました。

琉球で取り調べられ、薩摩に送られました。当時の薩摩藩主は島津斉彬でしたので、公待遇を受け、斉彬自身からのお召もありました。

その後、長崎で取り調べられましたが、特に処罰もなく土佐藩に渡されました。高知で1ヶ月ほど取り調べを受けたのち故郷に帰ることができ、生きて母親と再会することができました。 

土佐藩で、万次郎の取り調べに同席したのが、河田小龍でした。

河田小龍は、後に『漂巽紀略』を記しています。

その後、土佐藩主山内容堂から呼出を受け、藩校「教授館」の教授に任命されました。

土佐に帰った翌年嘉永663日にペリー来航したことから、英語に着目した幕府から嘉永68月呼び出され幕臣となり、江川太郎左衛門の支配となり、本所の江川太郎左衛門の屋敷内に住むことになりました。

幕臣になるにあたって中浜万次郎と名のるようになりました。

嘉永71月のペリー再来航時には、本来であればジョン万次郎の英語力が発揮されるべきでしたが、徳川斉昭がスパイとなる可能性があるのでペリーとの交渉の場に出すなという徳川斉昭の横槍が入ったため、ペリーとの交渉の前面にはたつことができませんでした。

 また、安政7年の派遣米使節に随行した咸臨丸に通訳として乗船し懐かしいアメリカに渡りましたが、常に監視されている状況だったともいわれています。

 日本に帰国した後、小笠原近海で捕鯨を試みています。元治元年には薩摩に招かれ、開成所の教授となり、航海実習・測量術・造船術、英語などを慶応3年まで教えました。

その間、船舶購入のため上海に2度渡航しています。

明治維新後の明治2年、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命されました。

明治3年には、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されるが、足の潰瘍のため戦場には赴けずロンドンから帰国しました。

足の潰瘍は、帰国後治癒しましたが、明治4年に軽い脳溢血を発症し、それ以降は公職にはつかず、その後は悠々自適の生活をしていました。

そして、明治31年1112日亡くなりました。

万次郎の4代目子孫の中浜博氏が書いた『私のジョン万次郎』(小学館刊)によると、雑司ケ谷霊園のお墓は、万次郎が生前に谷中の仏心寺に自分で用意していたもので、大正9年仏心寺から雑司ヶ谷霊園に神式にして移されたものだそうです。

ちなみに、万次郎自身は、アメリカにいたことからキリスト教徒でした。そして、まだ中浜博氏もキリスト教徒だそうです。

この本の中に、「万次郎の好物であったのが「うなぎ」で、東京で万次郎がよく行ったうなぎ屋は、浅草の「やっこ」という店であった」と書いています。

以前、老舗めぐりで「やっこ」にお邪魔した際に、女将さんから勝海舟や万次郎の話を聞かせてもらいましたが、『私のジョン万次郎』にも勝海舟と行ったことが書いてあります。

以前書いた『やっこ』の記事はこちらです。⇒ 「鰻 やっこ」

また、ジョン万次郎を救助して教育も受けさせてくれた船長のホイットフィールドの子孫とは現在も交流が続いているそうです。

良い話だと思いました。


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# by wheatbaku | 2016-12-02 10:54 | Trackback

昨日は、江戸検1級2期合格者の集い「伴四郎会」で、両国の「ぼうず志ゃも」に行ってきました。

「ぼうず志ゃも」は、両国駅から5分のところにあります。

c0187004_15405025.jpg現在は、回向院の西側の静かな通りに面しています。

通りに面しているといっても、周りは住宅も立ち並ぶ地域にたつ日本家屋ですので、なにげなく見過ごしてしますかもしれないという立たずまいの落ち着いた門構えです。

しかし、「ぼうず志ゃも」の創業は天和年間だそうですので、創業以来300年を超える老舗のなかの老舗です。

現在は、落ち着いた街並みですが、創業時から変わらすに現在の場所にあったとすれば、江戸時代は、回向院は、隅田川を向いていましたので、江戸時代には、回向院の門前にあったことになります。さぞかし盛り場の中だったろうと想像したりします。

「ぼうず志ゃも」というちょと変わったお店の名は、創業者が、舟頭衆のけんかの仲裁をするために、坊主頭となっていたこと由来しているそうです。

「ぼうず志ゃも」の名物は、店名の通り、しゃもなべです。

 しゃもなべの名店はほかにもありますが、しゃも鍋の提供を始めたのは、当c0187004_15411611.jpg店が最初だそうです。

昨日は、コースでお願いしましたが、メインはやはりしゃも鍋です。

名物のしょも鍋は、千葉県で飼育されているしゃもを使い、ぼうず志ゃも独自の味噌や割下を使用しているそうです。白滝・葱も加わっています。

すべて、仲居さんが作ってくれました。

お肉はやわらかく味も抜群でした。

参加者は、「ぼうず志ゃも」で会食ができるのを楽しみにしていたメンバーばかりですので、大好評で、人形町の某有名店より、おいしいという感想もありました。

しゃも鍋を食べながら、参加者の近況報告もありました。
c0187004_15413327.jpg メンバーは、江戸検1級に合格した後、各人とも様々な分野で活躍しているので、話題は豊富です。

史跡案内の話、古文書の話、大学やカルチャーセンターでの講座の話、街道歩きの話、話はつきません。

伴四郎会の面々は、江戸検合格後も、一心不乱に江戸の追及をしています。

そのため、誰かが疑問があって質問しても、すぐに誰か答えてくれるというのが、この伴四郎会の強みです。私も大変助かっています。

歓談の中では、昨日も様々な疑問が出ていましたが、すぐに解決してしまいました。

江戸の話題は尽きませんが、予定時間も大幅に超過したため、記念写真を撮って御開きとしました。

取り締り役のM御大さん・幹事役のTさん大変お世話になりました。ありがとうございました。

そして、ご参加の皆さん、楽しい時間ありがとうございました。

c0187004_15415079.jpg
 「ぼうず志ゃも」は赤印です。






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# by wheatbaku | 2016-11-30 15:37 | 江戸の味 | Trackback

雑司ケ谷霊園に眠る有名人の第7回は夏目漱石です。

c0187004_23353359.jpg夏目漱石のお墓は1‐14‐1 にあります。

漱石のお墓は大変大きい墓碑で、よく見るとイスの形をしています。 

夏目漱石は大正5129日に49歳で亡くなりました。

大正5年というのは西暦でいうと1916年です。今年は2016年ですから、今年は没後100年ということになります。

夏目漱石が生まれたのは、慶応3年(1867)です。つまり、明治になる前年に生まれました。

そのため、明治の年数が、そのまま漱石の年齢となります。

慶応3年は西暦でいうと1867年ですので、来年が生誕150年ということになります。

c0187004_23353878.jpgそうしたことがあって、先日NHKで「漱石の妻」というドラマが放映されたのだと思います。

これからも、漱石記念イベントがつづくことになりそうです。
 (右写真は早稲田の漱石公園入口にある漱石の銅像です。)

実は、慶応3年に誕生した人物は、漱石のほか、錚々たるメンバーがいます。

幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉は、すべて慶応3年生まれです。

こうした人たちも来年は生誕150年となるので、この人たちの記念イベントも続々あるものと思います。

夏目漱石は、明治の大文豪ですので、多くの本が出版されていますが、その中で『文豪・夏目漱石』(江戸東京博物館・東北大学編、朝日新聞社刊)を参考に、漱石についてかいていきたいと思います。

夏目漱石が生まれたのは、現在の早稲田です。

c0187004_23500168.jpg東京メトロ「早稲田駅」の2番出口の道路を挟んだ東側にある小倉酒店の隣が漱石の生家があった場所です。

右写真の中央の道路が「夏目坂」です。
 その左手にあるのが小倉酒店です。

生家跡にも、「夏目漱石誕生之地」と刻まれた石碑が建っています。(右下写真)

17歳のとき、大学予備門(のちに第一高等中学校と改称)に入学し、23歳のとき、東京帝国大学英文学科へ入学します。

26歳のとき同大学同学科を卒業した後は、東京高等師範学校の英語嘱託をへて、明治28年(1895)松山の愛媛県尋常中学校に英語科教師として赴任し教鞭をふるう。松山時代に、貴族院書記官長中根重一の長女中根鏡子と見合いをし、翌年、熊本県の第五高等学校講師として赴任してから、結婚し、熊本で新婚生活をはじめます。

c0187004_23500599.jpg33歳のとき、漱石は文部省から英文学研究のため英国留学を命じられます。しかし、ロンドン滞在中、神経衰弱となり文部省から帰国を命じられ、明治36年(1903)に急遽帰国しました。

帰国後、漱石は 小泉八雲の後任として東京帝国大学英文科講師となります。

しかし、漱石の硬い講義は生徒に不評で、「八雲留任運動」が起こるなどしたため、漱石は神経衰弱を再発させてしまいます。

そのような中、『ホトトギス』を発行していた高浜虚子から小説を書くようにすすめられて38歳のとき書いたのが「吾輩は猫である」です。

そして、明治40年(190740歳のとき、一切の教職を辞し朝日新聞社へ入社し、本格的に職業作家としての道を歩み始めます。

c0187004_23551248.jpgこの頃、漱石は早稲田南町に引っ越しますが。これが終の棲家となります。

この家は、のちに「漱石山房」と呼ばれ、多くの若い文学者たちが集まりました。

漱石の住まいだったところは、現在漱石公園となっています。
 (右上写真)

c0187004_23354295.jpgそこには、漱石生誕150年を期して漱石山房記念館が建設中です。
 (右写真が、完成模型図です。漱石公園内の道草庵に中に展示されています)

来年9月に開館する予定だそうです

漱石は43歳のとき、「門」の執筆中胃潰瘍を患い、転地療養のため修善寺温泉へ赴くが、そこで大量に吐血し、危篤状態に陥ります。これが俗に「修善寺の大患」と呼ばれ大変有名な事件です。

その後、容態が回復し東京へ戻りますが、以後、漱石は胃潰瘍が何回か再発し、ついに胃潰瘍で命を落とすことになります。

『文豪・夏目漱石』によれば、なくなる20日ほど前の1121日に辰野金吾の子供の結婚披露宴で漱石の大好物のピーナツが出ました。

いつもはピーナツを食べるのをうるさく禁止していた奥さんと席が離れたのを幸いにピーナツを食べすぎて翌日から体調をくずし、ついに大正5年(1916)12 月9日「明暗」執筆途中に胃潰瘍により亡くなりました。49歳でした。

「漱石の妻」に描かれていた奥さんも一緒にこのお墓に眠っています。

鏡子夫人は、よく悪妻といわれます。「漱石の孫」の中でも、夏目房之介氏は「鏡子夫人は『悪妻』のレッテルを貼られていると父などから聞いていた」と書いています。

しかし、『文豪・夏目漱石』や『漱石の孫』によると必ずしも「悪妻」ではなかったようです。

『文豪・夏目漱石』によれば、ロンドン留学から帰った時期は漱石自身も強度の精神衰弱となり家庭内暴力を振るったため、妊娠中であった鏡子は一旦実家に帰りますが、漱石が精神病だと医者から聞かされた鏡子夫人は、病気なのであれば看病のため一生添え遂げようと決心し家に戻ったそうです。

これは「漱石の妻」にも描かれていましたね。

また、『漱石の孫』には「鏡子夫人は、漱石とちがって、長命だった。亡くなったのは僕が中学生になってからだから、祖母の人となりよくおぼえている。僕や従弟たちは「おばあちゃま」とよんで親しんだ。(中略)にこにこして、物にあまり動じない人のようにおぼえている」と書いてあります。

孫たちにはよいお祖母さんだったようで、悪妻というイメージはないようです。
 「漱石の妻」を見て、鏡子夫人のイメージが変わった人もいるかもしれません。




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# by wheatbaku | 2016-11-28 23:32 | 大江戸散歩 | Trackback

雑司ケ谷霊園に眠る有名人の第6回は、千葉定吉・重太郎父子です。

c0187004_18411817.jpg千葉定吉・重太郎は、管理事務所の東側の一画1-西6-5 に眠っています。

 写真の左側が千葉定吉の墓碑で、右側が千葉重太郎の墓碑です。

千葉定吉は、北辰一刀流の創始者千葉周作の実弟です。

当然、北辰一刀流の剣術家です。

定吉の剣の腕は高く評価され、嘉永6年に鳥取藩の江戸詰の藩士として召し抱えられています。



北辰一刀流といえば、千葉周作のお玉ヶ池の玄武館道場が有名ですが、千葉定吉は京橋の桶町に道場を開き、「桶町千葉」と呼ばれました。

桶町の千葉道場は、現在の鍜治橋交差点近くにありました。

現在は、「千葉定吉道場跡」と書かれた中央区教育委員会の史跡説明板が立っていますので、「桶町千葉」がどのあたりにあったのかわかります。

 しかし、昔は、説明板がありませんでした。

「桶町千葉」で剣術を習った最も有名な人物は坂本龍馬ですが、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が放映されたのは平成22年でした。

私が江戸の史跡案内を始めたのが、この頃からです。

c0187004_18452941.jpgこの年に、江戸での坂本龍馬に関連する史跡の一つとして桶町の千葉道場跡を案内した時には、史跡説明板がなくて、案内するのに苦労したことがあります。

「龍馬伝」放映をきっかけに、この説明板が設置されたものだと思います。

右上写真が説明板ですが、正面の道路が鍛冶橋通りで、左に行くと鍛冶橋交差点、右に行くと京橋交差点です。二つの交差点のちょうど中ほどにあります。


説明板に書かれている地図(下の写真)では、五郎兵衛町の北側に千葉定吉と確かに書かれています。これが「桶町千葉」です。

c0187004_18413665.jpg

c0187004_18415797.jpg説明板の向かい側の「ヒューリック京橋ビル」(右写真)辺りに、「桶町千葉」があったと思われます。


千葉定吉の隣に眠る千葉重太郎は、千葉定吉の長男です。

「桶町千葉」で剣術を習った最も有名な人物は前述したように坂本龍馬です。

坂本龍馬は、嘉永6年(1853)江戸に上り、土佐藩邸から近かった桶町千葉に入門しました。

桶町千葉で坂本龍馬が剣術指南を受けたのは主に重太郎であったと考えられています。

千葉重太郎も父親同様に鳥取藩に仕官しています。


坂本龍馬は、最初、暗殺しようとして勝海舟を訪れたが、逆に説得され、勝海舟の弟子となったという話は有名ですが、このとき、千葉重太郎も龍馬と一緒に勝海舟を訪ねてします。

 大河ドラマ「龍馬伝」にも、その場面がありましたが、司馬遼太郎の名作『竜馬がゆく』にも描かれています。


私が持っている文春文庫『竜馬が行く』では第3巻に「勝海舟」という章があります。

c0187004_18521459.jpg勝海舟を暗殺すると言い出したのは千葉重太郎です。
 千葉重太郎と坂本龍馬が赤坂氷川下の勝海舟の屋敷を訪ねます。
 勝海舟は二人が暗殺のために訪ねてきたことを最初から承知していて、二人の機先を制した後、世界の情勢と日本が置かれている状況を説明します。
 それを聞いても千葉重太郎は勝を斬ろうとしますが、坂本龍馬がその出鼻をくじいて海舟に弟子入りするという流れとなっています。
 これほどまで龍馬と関係がある千葉定吉と重太郎ですが、案外名前は知られていないようなのがちょっぴり残念ですね。






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# by wheatbaku | 2016-11-26 18:31 | Trackback

c0187004_10512334.jpg 雑司ケ谷霊園に眠る有名人の第5回は、小栗上野介一族のお話です。

 「小栗家累代之墓」には、小栗上野介忠順のほか、小栗上野介の夫人と遺児も眠っています。

今日は、その人々について書いていきます。

c0187004_10512790.jpg「小栗家累代之墓」の墓碑の裏面には、小栗上野介のほか、その道子夫人、遺児国子、その夫貞夫の名前が刻まれています。(右写真をご覧ください)

この人たちは、小栗上野介の斬首に伴い波乱万丈の生涯をおくりますが、それについて「小栗忠順のすべて」(村上泰賢編 新人物往来社刊)や東禅寺のホームページを参考に書いていきます。

c0187004_10514746.jpg 小栗上野介は、慶応4年閏45日に新政府軍に捕えられ、取り調べもなく、翌日の4月6日権田村の川原で斬首されました。

 小栗上野介は、道子夫人と別れる際に、万が一の場合には会津に逃れるように指示し、道子夫人を村役人百姓代の中島三左衛門に託しました。

中島三左衛門は村人たち30人余りで護衛隊を作り、会津をめざしました。

 この時に、道子夫人のほかに、上野介の母くに、養子又一の許婚鉞子(よきこ)も一緒に会津をめざしました。

会津までの脱出のコースは、東禅寺のホームページによれば、

権田―六合村―地蔵峠―秋山郷―十日町―六日町―新潟―水原―津川―会津若松 となっています。

 高崎市の東善寺には、会津までの逃避行の道順を書いた地図が掲示されていました。(下写真)

c0187004_10514364.jpg
現在の群馬県と新潟県の県境に横たわる山を越える険しく狭い山道を脱出していきました。

c0187004_10513431.jpg妊娠8か月で身重な道子夫人は、山駕籠に乗ったり、あるいは駕籠に乗せることができず草刈籠の中にいれて村人がそれを背負って山道を進んだこともあったそうです。
(右写真は、東善寺に展示されている道子夫人も乗ったという山駕籠です)

 こうした険しい山道を伝わってようやく新潟にたどりつきました。

 新潟は、小栗上野介の父忠高が新潟奉行を勤めていて、ここで亡くなった土地でした。

 小栗忠高の墓は、市内の法音寺にありました。そこで、小栗上野介の母の国子は亡くなった夫の墓参りをすることができました。

 しかし、新潟も安住の地ではないため、2泊しただけで、会津に向かいました。

会津に入った道子夫人たちは、会津藩若年寄横山主税常忠の家族に迎えられ、困難を極めた脱出行も無事終わりました。

横山主税は、閏4月29日に道子夫人たちが到着したときは、白河城に出撃していましたが、5月1日に戦死し、会津城下にも新政府軍が迫ってきたため道子夫人は横山家を出て、南原の野戦病院に移動し、無事女の子を出産しました。
 道子夫人は生まれた女児を国子と名づけました。

 道子夫人と国子は、会津戦争が終わった後、翌年の明治2年春会津をたって東京へ出て、さらに静岡まで移動しました。

道子夫人らを静岡まで送り届けて権田村へ戻った中島三左衛門は、権田村を管理していた高崎藩に帰村届を出しました。

その際に、問われるままに、道子夫人の脱出の顛末、静岡で小栗家を再興したことなどを報告しました。

これを聞いた高崎藩の役人は非常に感嘆し、「汝等は小栗上野介の家臣でなく、領地の村役人に過ぎないのに、身命を賭して小栗上野介のために尽くした赤誠は、代々禄を食んだ家臣でも遠く及ばない」と激賞し、苗字帯刀を許し、姓を中島から「誉田(ごんだ)」と改めるよう申し渡されたそうです。

 道子夫人らはまもなく東京へ出て、三井家大番頭の三野村利左衛門の保護を受け、三野村が明治10年55歳で死んだ後も三野村家の保護は継続しました。

 三野村利左衛門は、若い頃、小栗家の中間として働いていたことがあり、両替屋を開いた後も小栗上野介からを助けたもらったことがあり旧恩を感じていました。

c0187004_10515006.jpg 小栗上野介と三野村利左衛門の生涯を描いた小説が集英社文庫の『日本大変 小説小栗上野介と三野村利左衛門」(高橋義夫著)です。

 三野村利左衛門は、死ぬまで昔使えた小栗上野介への恩を忘れなかったそうですが、この小説の後半には、小栗上野介の遺族を保護する三野村利左衛門の忠義がよく描かれていて、一読の価値があると思います。

 明治19年に道子夫人が亡くなると、遺児国子は大隈重信・綾子夫妻が保護して育てられました。

 大隈重信夫人綾子は小栗上野介の従妹で、幼い頃に小栗家で育てられていたことがあります。
c0187004_07554139.jpg 
その頃の恩返しだったのでしょう。
右写真は、早稲田大学キャンパス内の大隈庭園にある大隈綾子の銅像です。

 遺児国子は、大隈重信夫妻の配慮もあり、政治家・ジャーナリスト・小説家として活躍した矢野龍溪の実弟貞夫と結ばれることとなります。

 二人の間には又一が生まれ、小栗家は現在まで存続しています。

 小栗国子は、昭和4年に60歳でなくなりました。

 その一生について、高橋義夫は『日本大変』で次のように書いています。

 

 旧幕の名勘定奉行小栗上野介の悲劇の子として生まれ、数奇の運命をたどった国子の身の上は、同時代の心ある人々が案じ、いつも誰かしらが折に触れて救助の手をさしのべて来たのである。非命に斃れた父の忠順と、苦労を重ねた母道子夫人の分まで、人に愛された一生だった。

 その小栗国子、会津まで決死の脱出行をやり遂げ国子を生んだ道子夫人、さらに国子と結婚し小栗家の墓を建立した小栗貞夫は、現在は、静かに雑司ケ谷霊園に静かに眠っています。



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# by wheatbaku | 2016-11-24 10:36 | Trackback

雑司ケ谷霊園に眠る有名人の4回目は、小栗上野介忠順です。

小栗上野介忠順のお墓は、1-4B-5 にあります。

管理事務所の北側の一画です。

c0187004_09190200.jpg小栗上野介忠順の遺骨が埋葬されたお墓は、群馬県高崎市倉渕町権田の東禅寺にあります。(最下段写真が東禅寺の小栗上野介のお墓です。)

雑司ケ谷霊園にあるお墓は「小栗家累代之墓」とされています。
c0187004_09190691.jpg 台石に大正元年九月小栗貞夫建之刻まれています(実際は右から左に刻まれています。右写真参照)

小栗貞夫は、小栗上野介が斬首された後に生まれた一人娘国子の夫です、つまり小栗上野介の養子ということになります。

c0187004_09261319.jpg小栗上野介について、東禅寺住職の村上泰賢氏が書かれた『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』や『小栗忠順のすべて』などを参考に書いてみます。

小栗上野介は、父がなくなった29歳の時に跡目相続をした3年後の安政7年に目付となり

日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国しました。

その直後、外国奉行に就任した後、勘定奉行、町奉行など、旗本が勤めることのできる要職をほとんど経験し、幕府の財政再建や横須賀造船所の建設などの業績を上げています。

 

小栗上野介は、対薩長に対しては、一貫して強硬姿勢をとっていました。(右下写真は東禅寺にある小栗上野介の銅像)

c0187004_09191254.jpgそのため。鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後、薩長への主戦論を唱えましたが、徳川慶喜は、恭順姿勢を崩さず、徹底抗戦を唱える小栗上野介は勘定奉行を罷免されます。

そのため、小栗上野介は、領地である上野国群馬郡権田村に引きこもります。

慶応4年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、慶応4年閏46日、斬首されました。

幕府の要人だった人物が新政府軍に斬首されたという例はあまり多くないように思います。小栗上野介のほかには近藤勇が有名です。

 近藤勇は、坂本龍馬が新撰組に暗殺されたと思っていた土佐藩が強硬に斬首を主張したという説があり、当時としては、相応の斬首理由があったものと思われます。

 しかし、小栗上野介の斬首の理由は、しっかりした根拠はないと言われています。

c0187004_09191790.jpg 星亮一は、『小栗上野介』で「この理不尽な行為は、薩長最高幹部が背後で糸を引いたことは間違いなかった。誰が誰とは断定できないが闇の刺客の手で忠順は抹殺されたのである」と書いています。

 そのため、小栗上野介が斬首された権田村の川原に建立されている石碑には「罪なくして此処に斬らる」と刻まれています。

 (過去の記事 「小栗上野介終焉の地を訪ねる」 をご参照ください)

 小栗上野介の首は首実検のため高崎に送られ、遺体だけが東禅寺に運ばれ埋葬されました。

c0187004_09192585.jpg その後、首も権田村の村人たちの手で高崎のお寺から取り戻され東禅寺に埋葬されました。(右写真参照)

 小栗上野介の墓の隣には、小栗上野介の養子又一のお墓もあります。 

 小栗又一は、小栗上野介が斬首された翌日の閏47日に、出頭していた高崎藩で斬首されました。

小栗上野介が斬首された時、妻の小栗通子は、妊娠8カ月の身重でした。

小栗上野介から会津に逃げるよう指示されていた通子は、無事、会津へ逃げ延び、会津で一子を生みます。

その子が、国子です。成長した国子の夫が小栗家の墓を建立した小栗貞夫です。

小栗上野介の遺族の逃避行等については次回書きます。

 


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# by wheatbaku | 2016-11-22 09:02 | 大江戸散歩 | Trackback

雑司ケ谷霊園に眠る有名人の3回目は小泉八雲です。

 小泉八雲は、岩瀬忠震のお墓からあまり遠くない1-1-8にあります。

 小泉八雲の生涯を『神々の国 ラフカディオ・ハーンの生涯』(工藤美代子著 集英社刊)を参考に紹介します。

c0187004_23173463.jpg 小泉八雲は、明治29年に帰化し小泉八雲となりました。それ以前はラフカディオ・ハーンといいます。

ラフカディオ・ハーンはアイルランド人の父とギリシャ人の母の子供としてギリシアのレフカダ島で生まれました。レフカダ島からラフカディオというミドルネームが付いたと言われています。

 アイルランドで幼年期を過ごし、19歳で渡米しアメリカでジャーナリストとして活躍しました。

明治23年来日し、来日後に松江中学(正しくは島根県尋常中学校)の教師の仕事を紹介してもらい、松江に赴任し英語教師として教鞭を執るようになりました。

c0187004_23182883.jpg その年の年末に小泉セツと結婚しました。

小泉セツは、ハーンの世話をしてくれる女性だったそうです。
 セツは18歳年下でした。
 セツのお墓は小泉八雲の向かって左隣にあります。(右上写真)

小泉八雲は、松江を大分気に入ったようです。

松江ではハーンではなくヘレンと呼ばれていたそうです。

二人の新居は「小泉八雲旧居」として松江市に残されているようです。

明治2411月に、八雲は松江を去り、熊本に移ります。冬の寒さが堪えがたいというのがその大きな理由だそうです。

1115日家を去る時には、自宅の前には約200名に生徒がかけつけたと「神々の国」(工藤美代子著)に書かれています。

熊本の第五高等学校にでは3年教鞭をとりました。

校長は、弘道館柔道の創始者として有名な嘉納治五郎でした。

ここで、「この学校の漢文の老先生で、みんなからひとしく尊敬されている人」と書いた元会津藩士秋月悌次郎と出会います。

この秋月悌次郎を評して小泉八雲が「神のような人」といった言葉は、秋月悌次郎を語る時は、必ず引用される有名な言葉です。

こうした出会いがあった熊本でしたが、八雲にとっては熊本は松江と比べて好ましい土地ではなかったようです。さらに同僚との確執もあって、第五高等学校を辞めて、神戸の英字新聞社に勤めました。

そして、明治2944歳の時に日本に帰化し小泉八雲と名のります。

 小泉はセツ夫人の家の苗字で、八雲は「八雲たつ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」という日本最古の和歌といわれる素戔嗚尊の和歌からとったものです。

 『神々の国』(工藤美代子著)によれば、小泉八雲自信が、手紙の中で「八雲とは八つの雲という意味で、日本語の現存する和歌の中で最も古い歌の最初の部分から取り入れた名です」と書いているそうです。

神戸の出版社に勤務している時に、東京帝国大学の英文学の講師に迎えらました。

c0187004_23194913.jpg東京での新居は市谷富久町に構えました。
 ちょうど自証院というお寺の近くでした。

 自証院は、尾張藩主徳川光友が夫人の千代姫の母の自証院を供養するために建立したお寺です。自証院は、現在も残されていています。(右上写真)

 自証院と道路を挟んだ西側に成女学園があります。

c0187004_23201172.jpg その正門脇に小泉八雲旧居跡と刻まれた石碑と新宿区教育委員会の説明板が建てられています。(右写真) 

 小泉八雲をこの自証院の木立が生い茂る雰囲気をこよなく愛し、よく境内を散歩したそうです。

しかし、この自証院の住職がかわり、木立が切り払われていくと、八雲は雰囲気が壊されていくのに耐えかねて、西大久保に転居します。

西大久保の屋敷は、もとは板倉子爵の屋敷だったそうです。ここが終焉の地となります。

c0187004_23202507.jpgこの場所は、現在は、小泉八雲記念公園となっています。

小泉八雲記念公園は、平成5年につくられたもので、小泉八雲の縁で友好都市となっているギリシアのレフカダ町の助言を得たものでギリシア風の公園となっています。

公園内には、小泉八雲の銅像が設置されています。(右下写真)

c0187004_23312411.jpg 東京帝国大学では7年務めたあと、明治36年に東京帝大をやめています。

 東京帝大での待遇等が厳しくなりやる気がなくなったことが大きな理由のようです。

 八雲が辞める際には、学生たちから留任運動が起きたそうです。

 八雲のあと、講師となったのが夏目漱石です。

 浪人になった小泉八雲は明治37年早稲田大学に迎えられ教鞭をとり始めました。

しかし、その年、明治37926日狭心症でなくなりました。

最後の言葉は、日本語で「ああ、病気のために・・・」だったそうです。54歳でした。
 葬式は旧宅近くの市谷の自証院で仏式で行われました。
 そして、八雲が生前好んで散策した雑司ケ谷にある雑司ケ谷霊園に埋葬されました。

八雲は青山墓地はひどくにぎやかであまり好まず、雑司ケ谷のほうが「場所も淋しく形勝の地でもある」というので、決めたそうです。

 今年の江戸検の問題に次のような問題が出題されました。

【5】安政元年(1854)の安政南海地震の際、紀伊国広村の濱口梧陵は津波の襲来を察知して、村人を高台に避難誘導しました。このとき、梧陵が村人の注意をひくためにとった手段は、次のうちどれでしょう?

い)稲むらに火を放った  ろ)鉄砲を乱射した 

 は)寺の鐘を乱打した  に)花火を打ち上げた

 これは、正解は、もちろん い)です。

 この話は「いなむらの火」として大変有名です。

 この「いなむらの火」の元になった小説が『天下大変 江戸の災害と復興』に書かれている通り、小泉八雲の『Living God(生神)』です。

 この『Living God』は、『いなむらの火』というサイトによれば、小泉八雲が明治29年(18966月に起こった三陸大津波の三ヶ月後に書き上げ、明治30年(1897)に出版された『Gleanings in Buddha-Fields(仏の畑の落穂)』の冒頭の作品として発表されたものだそうです。



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# by wheatbaku | 2016-11-19 23:10 | 大江戸散歩 | Trackback

雑司ヶ谷霊園に眠る有名人の2回目は岩瀬忠震です。

c0187004_10335859.jpg岩瀬忠震のお墓は、永井荷風の斜め向かい側にあります。
 雑司ヶ谷霊園の区画で言えば1種1号8側です。

岩瀬忠震の墓所入口には右写真のような「岩瀬肥後守墓道」と刻まれた案内石柱が建てられていますので、これが目印になります。

岩瀬忠震は、幕末好きの人ぐらいしか知らないだろうと思っていましたが、先日の雑司ヶ谷霊園散歩の際には、永井荷風より人気があり、予想外の人気ぶりに驚きました。

岩瀬忠震の墓所には、三つの墓碑があります。
c0187004_10340558.jpg 岩瀬忠震の墓と養父岩瀬忠正の墓、そして岩瀬家の墓です。

墓所正面にある「従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓」と刻まれている墓碑が岩瀬忠震のお墓です。

この墓碑銘のうちの「爽恢」は、岩瀬忠震の諡(おくりな)です。

これは松岡氏によれば、永井尚志が付けたものだろうとのことです。

「府君」とは一般名詞のようで、辞書によれば、「1、亡祖父・亡父を敬っていう語。2、 尊者・長者を敬っていう語」だそうです。

岩瀬忠震については、中公新書の「岩瀬忠震」(松岡英夫著)が名著だと思います。

「岩瀬忠震」(松岡英夫著)を参考に、岩瀬忠震の生涯について書いていきます。

c0187004_10442242.jpg岩瀬忠震は、文政元年(1810)、旗本設楽貞丈の3男として生まれました。

母は林述斎(林大学頭)の娘で、おじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に堀利煕がいます。

天保11年(184023歳の時、岩瀬忠正の婿養子となり、岩瀬家(家禄800石)の家督を継ぎました。

天保14年(1843)昌平校大試験に乙科及第、嘉永2年(1849)部屋住のまま両番士,甲府徽典館学頭,昌平校教授を歴任し、嘉永6年、徒頭となり、翌年の安政元年122日、永井尚志,大久保忠寛らと前後して目付に登用されました。

ペリーの再来航が116日ですので、ペリー再来航後、阿部正弘が急遽若手秀才を登用した中の一人として登用されました。

 目付に登用され、海防掛、軍制改正用掛、蕃書翻訳用掛、外国貿易取調掛を兼務しました。

安政2年(1855)には、日露和親条約修正のためのロシアのプャーチンとの交渉に加わりました。

安政3年(18568月にアメリカからハリスが来日し、安政412月より下田奉行井上清直とともに全権に任ぜられて日米修好通商条約の草案の審議に当たりました。

草案合意後、条約勅許を得るために安政5年老中堀田正睦に従って上洛しましたが、朝廷から条約調印の承認を得られず江戸に帰りました。

4月に江戸帰着早々、井伊直弼が大老に就任しました。

井伊大老からの指示は、勅許を得るまで引き延ばしを交渉しろというものでしたが、即時調印すべきとの考えから「ハリスが引き伸ばし交渉に応じなかった場合には、調印してもよいか」と質した(実際に質したのは井上清直のようです)うえで、「その場合には調印しても致し方ない」との言質をとったうえで、ハリスとの交渉に臨みました。

ハリスは当然引き伸ばしに応じなかったため、安政4619日、井上清直と共に全権として条約に調印しました。

そして、その年7月、新設の外国奉行に就任、引き続き日蘭、日露、日英、日仏の各修好通商条約の交渉にあたり調印しました。まさに対外交渉の第一線で活躍したのでした。

c0187004_10341745.jpgしかし、岩瀬忠震は、将軍継嗣問題で一橋慶喜の擁立をめざす一橋派の中心人物として行動したため、大老井伊直弼に忌まれ、五か国条約調印直後の95日、井伊直弼により作事奉行に左遷され、翌安政68月作事奉行罷免・永蟄居に処せられ,江戸向島に隠棲し、文久元年716日なくなりました。44歳でした。

岩瀬忠震の死については、川崎柴山、栗本鋤雲は憂憤による死であると書いています。

東武スカイツリーライン東向島駅から徒歩10分の所に白鬚神社があります。東向島駅からですと有名な向島百花園の前を通っていきます。向島百花園は紅葉の盛りでした。(右上写真)

c0187004_10342658.jpg白髭神社は社伝によれば平安時代前期に創建された古い神社です。
 隅田川七福神の一つ寿老人が祀られていることで有名です。

その境内に「岩瀬鴎所君之墓碑」があります。(右下写真)

岩瀬忠震の用人であった白野夏雲が建立したもので、撰文は永井尚志が書いています。

c0187004_10343502.jpg墓碑と書かれていますが、撰文の後半には次のように書かれていますし、岩瀬忠震は小石川の蓮花寺に埋葬され、その後雑司ヶ谷霊園に改葬されていますので、墓碑ではなく顕彰碑といってよいと思います。

「文久元年七月、天、其の寿と奪い、病を以て卒す。享年四十有四。諡を爽 と曰い、白山蓮花寺先 の次に葬る。君、元設楽(しだら)氏。岩瀬忠正養いて嗣子と為し、其の長女を配す。後、津田氏を娶す。三男皆早卒。六女あり、其の三は人に適(とつ)ぐ」

この顕彰碑は、白鬚神社の宮司さんのお話では、「来歴がはっきりしないが、白鬚神社に建てられたものではなく、近くに岩瀬忠震が隠棲した岐雲園があるので、岐雲園もしくはその近くに建立され、のちに白鬚神社に移転されたのではないだろうかと考えています」ということでした。

「岩瀬忠震」(松岡英夫著)を読んで知ったことがいろいろありました。

岩瀬忠震の業績として、日米修好通商条約の締結、そして一橋慶喜の擁立を図ったことはよく知られていることですが、その他、次のようなことがあるそうです。

 ①品川台場の築造に参加

 ②軍艦製造

 ③講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の設立

 ④香港渡航を企画

 ⑤日米通商条約の批准をワシントンで行うと提案したこと。

こうしてみてみると、幕末に徳川幕府が行った政策のほとんどに参画していることがわかります。

その中で、特に驚くことは、自ら海外に渡航しようとしていることです。

ワシントンでの日米通商条約の批准には、正使新見正興、副使村垣範正、目付小栗忠順が派遣されていますが、岩瀬忠震自身が渡米するつもりだったようです。

しかし、左遷・免職となったため、派遣するメンバーが変わり、上記メンバーとなったそうです。

岩瀬忠震が活躍したのは、目付に登用された安政元年から、作事奉行に左遷される安政6年までの丸5年間だけです。
 しかし、その業績は目を見張るものがあります。

まさに岩瀬忠震は「幕末を駆け抜けた秀逸」といってよいのではないでしょうか。



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# by wheatbaku | 2016-11-17 10:21 | 大江戸散歩 | Trackback