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天海が住職と勤めた喜多院の歴史および慈恵堂《喜多院⑴》(徳川家康ゆかりの地64)

天海が住職と勤めた喜多院の歴史および慈恵堂《喜多院⑴》(徳川家康ゆかりの地64)

 先日、川越の喜多院に行ってきました。川越の喜多院は、平安時代に創建されたとされていますが、関ケ原の戦いの前年慶長4年(1599)に天海が住職となり、その天海が徳川家康に深く信頼されたことにより、家康も何回も川越を訪れています。また、家康が亡くなった翌年、久能山から日光に改葬される際には、喜多院に3日間家康の霊柩が安置され供養されました。その縁から、三大東照宮の一つに数えられる仙波東照宮も創建されています。このように、家康と深い関係のある喜多院をこれから数回にわたりご案内します。初回は、まず、喜多院の歴史について書いていきます。下写真は喜多院の本堂(慈恵堂または潮音殿とも呼ばれる)です。

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喜多院は、平安時代初期、淳和(じゅんな)天皇の勅願により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所で、無量寿寺と名づけられました。

その後、鎌倉時代の元久2年(1205)に兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興させたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りして関東天台の中心となりました。尊海僧正は、講義所として仏地院、修法の場として仏蔵院を建立し、さらに地蔵院を建立したとされています。仏地院、仏蔵院、地蔵院は、のちに、それぞれ、南院、北院、中院と呼ばれるようになります。

鎌倉時代後期の正安3年(1301)後伏見天皇(または後二条天皇とも)が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下され、天台宗の関東総本山とされました。戦国時代には、後奈良天皇から「星野山」という山号の勅額を下されています。

しかし、天文6年(1537)には、小田原北条氏2代の北条氏綱が川越城を攻めた際に焼失し、その後、半世紀余りの間荒廃しました。

喜多院の発展に大きな貢献をした天海僧正が慶長4年(1599)に第27世住職となります。慶長16年(161111月家康が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして慶長17年、仏蔵院北院を喜多院と改めました。

(※この、歴史からわかるように、現在、私たちが呼んでいる「喜多院」は、元々は「北院」と呼ばれていたようです。)

寛永15年(16381月の川越大火で山門(寛永9年建立)を除き建物がすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光は川越藩主堀田正盛に命じてすぐに復興にかかり、7月に着工しました。まず最初に、東照宮が12月に再建され、江戸城紅葉山の建物が移築され、喜多院の客殿、書院等に当てられました。そして、慈恵堂が翌16年には完成しました。そして、寛永17年には、境内の諸堂もが再建されました。現在、喜多院にある建物の多くがこの時に再建されたものです。

 喜多院の本堂は、慈恵堂(じえどう)または潮音殿(ちょうおんでん)とも呼ばれます。(下写真)

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 慈恵堂(じえどう)とは、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)を祀っている建物であるため、そう呼ばれています。

桁行9間(約16.4メートル)、梁間6間(約11メートル)で、建物の中には、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りされています。川越大火の翌年寛永16年(163910月に建立されたもので、埼玉県の登録文化財となっています。

 なお、「潮音殿(ちょうおんでん)」とも呼ばれるのは、喜多院のホームページによれば、「それは昔、広くて静かなお堂の中に入り正座し、耳を澄ませていると、なんと不思議なことにザザザー、ザザザーと、まるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたのだといいます。これには人々も驚き、まるで潮の音のようだというようになり、潮音殿といつしか呼ぶようになったということです。」と書かれています。

喜多院の本堂入口の賽銭箱の上を見あげると、そこに「潮音殿」の額がかかっています。(下写真)

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# by wheatbaku | 2024-03-15 22:45 | 徳川家康ゆかりの地
文京学院大学で江戸の貨幣制度についてお話しました。

文京学院大学で江戸の貨幣制度についてお話しました。

 昨日、文京学院大学生涯学習センターで江戸講座が開講されました。今回は、「よくわかる江戸のお金のはなし」と題して江戸の貨幣制度について話してきました。(下写真は文京学院大学の校門の写真です。) 

文京学院大学で江戸の貨幣制度についてお話しました。_c0187004_17392738.jpg

 江戸時代の貨幣制度は複雑だとよく言われます。それは、現代の貨幣制度と比較して、①金貨、銀貨、銭貨(せんか)の三種類の貨幣が公認されていたこと。②東日本では金貨が主に使用され、西日本では銀貨が主に使用されていたこと。③それぞれの貨幣の単位が異なっているうえに、金貨は十進法でなく四進法で数えられたことなどによります。

 そこで、主に江戸時代の三貨制度を中心に説明しました。

三貨制度を創ったのは徳川家康です。徳川家康は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利し、天下の実権をほぼその手中に収めましたが、征夷大将軍に任じられるより前の慶長6年(16015月、慶長小判、慶長一分金、慶長丁銀、慶長豆板銀を鋳造し、全国流通を目的とした統一貨幣として発行しました。

 家康は、室町時代まで全国的に流通していた銭貨をべースにして、その頃、産出が増加していた金銀を組み入れて、全国一律に適用される貨幣制度を創り上げました。

このことから、徳川家康が初めて貨幣を統一したと評価されています。こうした説明を入り口として三貨制度について詳しく説明しました。

 今回のテーマは経済関係のテーマであるため、興味を持たれる方が少ないのではないかと危惧していましたが、いざ蓋をあけてみると30人弱の方が受講してくださり、大変うれしく思いました。

しかも、講義の際には、真剣に聞いてくださり、最後の質問コーナーでも多くの人に質問していただき、熱心に受講していただいたことがよくわかりました。(下写真は講義の様子です) 受講いただいた皆様ありがとうございました。

文京学院大学で江戸の貨幣制度についてお話しました。_c0187004_17392723.jpg

 また、アンケートでも、皆さんから継続して江戸のお金の話を聞きたいという感想をいただきました。こうしたアンケート結果に感謝しつつ、江戸の貨幣制度は奥が深いので、さらに深い話ができる機会を設定したいと思いながら帰途につきました。




# by wheatbaku | 2024-03-10 17:26
竹千代が武運長久を祈願した小梳(おぐし)神社(徳川家康ゆかりの地63)

竹千代が武運長久を祈願した小梳(おぐし)神社(徳川家康ゆかりの地63

 徳川家康は竹千代と呼ばれていた幼い時、今川家の人質として駿府に送られました。小梳神社は、そこ際に今川義元に対面する前にこの神社に立ち寄り、武運長久を祈願したとされている神社です。下写真が社殿です。

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 JR静岡駅前のビル群の間にあり目印は静岡パルコです。駅からは徒歩5分でお参りできます。下写真は呉服町通りに面した鳥居です。鳥居の向かい側にパルコがあります。

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 小梳神社についての説明をいろいろ調べてみましたが、神社の境内に掲示されている由緒がもっとも詳しいと思います。(下写真)。それによると、神社の「創建年代はハッキリしませんが、もともとは、現在の静岡県庁の東南の地辺り、すなわち静岡市歴史博物館がある辺りに鎮座していたようです。その地が小梳(おぐし)と言う地名で、小梳(おぐし)という神社名は、この地名に由来するもので、慶長14年(1609)駿府城を拡張した際に城内となり、徳川忠長が寛永8年(1631)に仮宮を造って奉遷し、延宝3年(1675)に現在の地に社殿を造営して遷宮したようです。その由緒(下写真)を転記しておきましたので、詳しくは下記をご覧下さい。

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小梳神社 

祭神 建速須佐之男命(たけやはすさのおのみこと) 奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)

相殿祭神  大己貴命(おおなむちのみこと) 天照皇大神 金山彦命(かなやまひこのみこと) 猿田彦命(さるたひこのみこと)

由緒 当神社創建の年代は詳かでないが、静岡市では最も古い神社の一つである。元の鎮座地は、現在の県庁の東南側の所であった。その周辺一帯の地名を古くは小梳(おぐし)と云い、後に東川辺と改められた。惣国風土記に「小梳神社所祭素盞嗚尊・奇稲田姫也。小梳後号東川辺、延喜式安倍郡小梳神社とあるは此社なり」と記載されている。大宝令の定めにより横田駅が設けられて以来は、その守護神として信仰され、貞観の頃より祇園信仰が全国に拡まるにつれて、当神社は少将井神社とも云われ、江戸時代には一般町民からは専ら「少将の宮」と称せられたようである。 

この東川辺の地に駿府城が築かれて以来は、府城の守護神としての崇敬が加わり、特に徳川家康が幼時今川家の人質として、当神社の宮前町に居住し撫育につとめた祖母華陽院と共に、日夜武運長久を祈願し、後年家康が大阪夏の陣に勝利し天下を平定して、この駿府城に隠居するにあたり、代々徳川家の守り神と伝わる大己貴命・天照大神二神を、小梳神社に合祀し、少将井五所大神宮と称し、元和元年九月三日に林道春(羅山)に命じて、この由を社講に識さしめ奉献したものが現存している。

これよりさき、慶長十四年駿府城の城域拡張により、当神社はその城域内に入った。駿河大納言忠長は、不敬を冒すを畏れ、又庶民参拝の便をはかって、寛永八年に仮宮を造って奉遷し、延宝三年に現在の地に社殿を造営して遷宮したこの造営の事にあたったのは城代松平右近を始めとして町奉行大久保甚兵衛外城番、番頭、加番、目付等である。

翌延宝四年から隔年に神幸祭が行われた。この神幸祭はぎおん祭といわれ町奉行、与力、同心が警護にあたり加番集より出し馬があり、駿府の町々は一番より四番まで組合を定め各町より屋台、台の物など踟物を出し駿府全域の町々を巡行した。当時のもようを駿国雅誌には「供奉の行列装束を粧い引連なる踟物の結構は都山王の祭礼に彷彿たり」と記されている。

明治八年二月郷社に列し、明治四十年七月県社に昇格した。

昭和十五年一月静岡市大火により社殿工作物を悉く失い、同年建築した仮社殿も昭和二十年六月の戦災により再び炎上したが昭和二十五年以来本殿・社務所・手水舎其他現在の建物を順次復興建築した。

昭和三十七年三月七日、北白川神宮祭主様が伊勢神宮の坊城大宮司、神社本庁佐々木統理を伴って正式参拝された。

例祭日 七月二十七日

新庄道雄の石文 駿河国三大地誌の一と高く評価されている評価されている「駿河国新風土記」の著者新庄道雄の碑が、当神社境内にある。平田篤胤の撰文で静岡市文化財に指定されている。

 上記由緒の最後に記載されている「駿河国新風土記」の著者新庄道雄の碑は、境内の池の畔に設置されています。(下写真)

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 下地図の中央が小梳神社です。






# by wheatbaku | 2024-02-21 22:00 | 徳川家康ゆかりの地
華陽院に眠る駿府の人質時代の竹千代(家康)を養育した源応尼は謎多き人物(徳川家康ゆかりの地62)

華陽院に眠る駿府の人質時代の竹千代(家康)を養育した源応尼は謎多き人物(徳川家康ゆかりの地62

 今日は静岡市内の徳川家康ゆかりの寺社の一つである華陽院(けよういん)を紹介します。華陽院には駿府で人質時代を過ごした徳川家康を養育した家康の祖母源応尼のお墓があります。

 華陽院は、JR静岡駅北口から徒歩10分の距離にあります。下写真がお寺入口ですが、正面が本堂です。入口右手は境内に併設されている幼稚園です。

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 華陽院は、元々、真言宗のお寺で知源院と称しましたが、永禄3年(1560)源応尼が亡くなると当寺に埋葬され、源応尼50回忌の慶長14年(1609)、源応尼の法名をとって華陽院と改め、浄土宗に改宗しました。下写真が華陽院の本堂です。
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 本堂手前に華陽院について静岡市の説明板があります。それには次のように書かれていました。

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「華陽院は、徳川家康の祖母・源応尼の菩提寺で、はじめ知源院と呼ばれていた。源応尼は、天文20年(1551年)8月、当時今川家の人質となっていた竹千代(後の家康)の養育者として岡崎から招かれ、知源院の近くに寓居を構えた。源応尼の親身の愛情は、肉親と遠く離れて淋しく暮らしていた幼い竹千代の心を大いに和ませた。竹千代は、源応尼の寓居と田んぼをはさんで隣りあったこの寺へよく遊びに来たが、竹千代を慈愛の心を持って迎え、時には文筆の師となって訓育したのが、住職知短であった。

 源応尼は、永禄3年(1560年)56日、成人した徳川家康が、今川義元上洛の先陣として浜松にあるとき、駿府で逝去した。後年、大御所として駿府に隠退した家康は、祖母のために盛大な法要を営んだ。「華陽院」の名は、その法名から改められたものである。

 境内には、源応尼の墓と並んで、7歳で死んだ家康の五女市姫の墓が、近くには側室お久のかたの墓もある。主な寺宝 団扇(家康が使ったもの) ひなた屏風(市姫が使ったもの)  静岡市 」

 源応尼のお墓は、本堂西側の墓所の中にあります。(下写真)

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 源応尼については、静岡市の説明板の通り、幼い頃の徳川家康の養育にあたったとされています。しかし、源応尼の素性についてははっきりしておらず謎が多いようです。『新編岡崎市史2(中世)』(国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます)の中に「家康誕生」という項目の中で源応尼(於富)に関して触れられていますので紹介します。

『新編岡崎市史』では、「家康の父は広忠(16歳)、母は水野忠政の女(むすめ)於大(15歳)。二人の婚姻は、天文10年のことであったが、この婚姻は政略的なものであるとともに祖父清康の影をひいたものであった。」と書かれたあと、「清康の影とは、(中略)、広忠は清康と青木貞景の女との間の子、於大は忠政と大河内元網養女於富(宮前七女、一説に尾張の青木式宗女)との間の子で、於富は忠政の死後は清康の妾となったから、広忠と於大は父母は異なるものの兄妹という関係によるというものである。」と、まず松平広忠と於大は父母は違うものの兄と妹という関係になると書いてあります。

 その後で、家康の祖母源応尼(実名は於富)について『新編岡崎市史』では、次のように説明しています。「広忠と於大は兄妹となるが、問題になるのは清康の三人目の妻という於富である。『松平記』は於富は水野忠政没後清康の室となったというが、忠政は清康に遅れること7年の天文12712日に51歳で没しているから、これは正しくないことになる。また忠政と於富の間の子とされている5人のうち生年の知られる四人の生まれは、忠守が大永51525)年、於大が享禄元(1528)年、忠分が天文61537)、忠重が天文101541)年となっており、於大と忠分の間に近信がいることを考えると、於富は清康の妻となった可能性は皆無といってよかろう。それにもかかわらず、『松平記』のみならず近世の幕府編纂の諸書までが、於富は清康の死後は星野秋国、菅沼興望、川口盛祐とさらに三度嫁したというのは、一体何によった話であろうか。さらに竹千代(家康)の駿府在住時代に、源応尼と称して16歳まで養育し、70余歳で永禄31560)年に没したというにいたってはどう解釈してよいのか判断に苦しむ。守山崩れで清康が25歳で死んだ折、於富は40歳をこえていた計算になるからである。

 赤字部分に書いてある通り、源応尼(於富)は、静岡市の説明とは異なり、非常に謎の多い人物だという説もあるようです。

 そのうえで、『新編岡崎市史』では最後に「於富をめぐる謎も時代のしからしめるところであったといえそうである。」と書いています。戦国時代は謎のことが多く、源応尼の謎もその一つということのようです。

 華陽院の源応尼のお墓の手前には、3歳で亡くなった家康の五女市姫のお墓があります。(下写真)

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下地図中央が華陽院です。



# by wheatbaku | 2024-02-16 22:45 | 徳川家康ゆかりの地
徳川家康の継室旭姫のお墓がある瑞龍寺(徳川家康ゆかりの地61)

徳川家康の継室旭姫のお墓がある瑞龍寺(徳川家康ゆかりの地61

 これまで久能山東照宮を紹介してきましたが、久能山東照宮をお参りした際に、静岡市内の徳川家康ゆかりの寺社である瑞龍寺、華陽院、小梳(おぐし)神社をお参りしてきました。これらの寺社についても、まだごブログで紹介してありませんので、これから数回にわたりご紹介します。

 瑞龍寺は家康の継室旭姫のお墓があり、華陽院は家康の祖母華陽院のお墓があります。小梳(おぐし)神社は家康が人質として駿府に入った際に最初にお参りした神社と言われています。これらの中から今日は、旭姫のお墓がある瑞龍寺を紹介します。

 瑞龍寺は JR静岡駅前から、路線バスの「しずてつジャストライン安倍線または美和大谷線」で「材木町バス停」下車して徒歩2分です。

 瑞龍寺は、永禄3年(1560)、曹洞宗長源院(静岡市葵区沓谷)の5世大和尚でもあった能屋梵藝(のうおくぼんげい)大和尚が開山した曹洞宗のお寺だそうです。下写真が寺院入口から撮った瑞龍寺全景です。

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 家康の継室旭姫は、滞在先の京都で死去し東福寺南明院に埋葬されましたが、瑞龍寺にも分骨されたといいいます。旭姫のお墓は本堂の裏側の山腹に西を向いて建てられています。(下写真)

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旭姫は天文12年(1543)、尾張国(愛知県)中村で生まれました。父竹阿弥は母なかの再婚相手です。豊臣秀吉は、なかの前夫木下弥右衛門となかとの間に生れており、旭姫は秀吉の異父妹になります。一方、豊臣秀長とは父を同じくする兄妹です。

天正12年(1584)、家康は小牧・長久手の戦いの後、二男秀康を人質として秀吉のもとに送ったものの家康自身は上洛しませんでした。そこで、秀吉は家康の上洛を促すため、築山殿が亡くなった後正室のいなかった家康に対して、旭姫を正室として輿入れさせました。旭姫はこの時、秀吉の家臣佐治日向守(また副田吉成との説もある)の妻であり、家康に嫁がせるため離別させたと伝えられています。 旭姫は天正14年(1586)5月、京都を発って浜松城にいる家康に嫁ぎました。この時、旭姫は44歳、家康45歳でした。その後、天正1410月に家康は上洛し、秀吉に臣従しました。そして、家康は旭姫とともに同年12月、浜松城から駿府城に居城を移しました。

駿河御前と呼ばれた旭姫は、天正16年(1588)に生母大政所の病気を見舞うため上洛し、その後、いったん駿府に戻りました。その後、再び上洛しましたが、この時、病気となり二度と駿府に戻ることはなく、天正18年(1590)1月14日に亡くなり、京都・東山にある東福寺南明院に葬られました。48歳でした。法名は「南明院殿光室総旭大禅定尼」と言います。

家康は天正18年南明院から分骨して瑞龍寺に旭姫の墓を建てました。旭姫が駿府に住んでいた間、しばしば瑞龍寺に参詣した縁があったためだと瑞龍寺には伝わっているようです。瑞龍寺での法名は「瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼」でした。なお、秀吉が小田原攻めで駿府に立ち寄った際、旭姫を供養するため墓を建てたとの説もあるようです。

お墓の前には旭姫について解説した説明板も建てられています。(下写真)

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豊臣秀吉は、旭姫が他界した年に、小田原の北条攻めを行い、関東に向かいました。7月には、北条氏政・氏直親子が降伏し、北条氏は滅亡しました。小田原攻めを完了し畿内に帰る途中、秀吉は天正18年8月22日、駿府に立ち寄った際に瑞龍寺に参詣、旭姫を供養したといいます。秀吉はその際、瑞龍寺に8貫文の寺領を寄進した領地安堵の朱印状を発給しています。下写真が瑞龍寺の本堂です。

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なお、北条氏が滅亡した後、秀吉は、家康を関東に移封し、東海道筋には、秀吉子飼いの武将たちを配置し、駿河には中村一氏を配置しましたので、秀吉が瑞龍寺を訪ねた時の駿府城主は中村一氏でした。

この時、秀吉が与えた朱印状が現存しており、瑞龍寺の寺宝の一つとなっていて、20234月に静岡市の文化財に指定されています。この朱印状と同時に①秀吉はが小田原征伐からの帰途に立ち寄って際に与えた「桐紋蒔絵膳」、②旭姫所用したと伝わる「桐沢瀉紋立湧模様打敷(小袖)」⓷「瑞龍寺由緒書」に家康より旭姫のために奉納されたとの記載がある「釈迦三尊・十六羅漢絵像(三幅一対)」④「覚(瑞龍寺由緒書)」も静岡市の文化財に指定されています。上記文化財は20231118日(土)・19日(日)には特別公開されたようです。

境内には、、芭蕉の句碑・時雨塚やキリシタン灯篭などがあります。

下写真が芭蕉の句碑・時雨塚です。

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下写真がキリシタン灯籠です。

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 下地図の中央が瑞龍寺です。

静岡浅間神社の近くです。浅間神社の赤鳥居からは徒歩約7分の距離です。




# by wheatbaku | 2024-02-12 22:45 | 徳川家康ゆかりの地
  

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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