江戸楽アカデミーが開講しました。

江戸楽アカデミーが開講しました。

昨日は、江戸楽アカデミーが開催されました。

しばらく、ブログの更新ができなかったのも、江戸楽アカデミーの準備に追われていたためです。申し訳ありませんでした。

昨日の江戸楽アカデミーは、台風18号が接近してきているので、開催が危ぶまれましたが、昨日の朝の時点で、台風18号はまだ九州に上陸していなかったため、予定通り開催されました。

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江戸楽アカデミーの開催場所は、日比谷公園内の日比谷図書文化館でしたが、そのすく近くにある日比谷野外音楽堂で午後4時から開催されるDISHのコンサートが予定通り開催されるということで、午前10時の段階で若い女性が大勢並んでいましたので、これなら、今日の天気は大丈夫だと意を強くして、日比谷図書文化館に入りました。

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首都圏は大雨と暴風が予想されていたので、欠席者が出るだろうと思っていましたが、60人の受講者のうち欠席はたったの1名でした。出席率が高いのに驚きました。

その理由の一端は、講座の最初のアンケートの結果からわかりました。

講座の冒頭で、受講者の皆さんに①今年の江戸検1級に合格をめざしているか ②とりあえず受検するだけで結果はきにしないか、いずれかと聞きました。

その結果では受講者の3分の2以上の方が①合格をめざしているということでした。

この講座は、申し込みを受け付け開始して3日で定員オバ―となったこともあります。

こうしたことから、天候など気にせず、万難を排して受講しようという方が多かったのだと思います。


講義は4時間30分の長丁場ですので、最初は、ゆっくりやろうと予定していましたが、大変熱心は受講生ばかりだということが確認できましたので、つい講義にも熱が入りました。

そのため、4時間30分、立ち続けて話すことになりました。

しかし、4時間30分の長丁場にもかかわらず、居眠りをする人が本当に一人もいなかったのには、驚くとともに感激しました。

受講いただいた皆さん、本当にありがとうございました。

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講義は、江戸検のお題のテキスト「疾走!幕末・維新」のうち、政治史を除いた部分の重要事項を説明しました。

4時間の講義でもテキストすべてを説明するには不足する時間ですが、昨日は予定していた項目はすべて説明しましたし、合格のための秘訣も講義することができました。

講義が役に立ったというお礼もいただきましたので、よかったと思っています。

講義の後は、懇親会です、懇親会は、一昨年・昨年の合格者も参加してくれたので、40名を超える大勢の参加者となりました。

既合格者たちからは、応援メッセージもあり、大いに盛り上がりました。

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そういえば、懇親会には、台風の進路にあたっていた長崎、神戸、岐阜、名古屋、静岡などからの参加者がいて、帰りを心配をしました。

すると、全員、東京に泊まるということなので、安心して、定刻まで、飲んで騒いでもりあがりました。

もう、大騒ぎしている時期ではなくなっているのですが、出陣式だということで、まぁ、許されるでしょう!!



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# by wheatbaku | 2017-09-18 19:20 | Trackback
新政府軍反攻(箱館戦争史跡めぐり⑩)

 新政府軍反攻(箱館戦争史跡めぐり⑩)

 箱館を占領された新政府は、榎本軍が蝦夷を領有するのを見逃していたわけではありません。

 10月25日青森に逃れた清水谷公考は、翌26日には新政府に軍勢の派遣を要請しました。

 新政府は、津藩、岡山藩、久留米藩の藩兵約1千名を青森への派遣を命じました。

 また秋田にいた長州藩兵約1500名も青森に向かわせました。

 そして、11月9日、山田顕義を青森口参謀に任命しました。

 山田顕義は、寒さが厳しく雪が激しい冬季に、蝦夷地を攻撃するのは無理と考え、明春に攻撃することしました。

 この後も、新政府は軍勢を増強し明治2年2月には6000名を超える軍勢が青森に集結しました。

 そして、黒田清隆が2月30日に参謀に任命され4月1日に青森に到着しました。

 一方、新政府の海軍は、榎本艦隊に劣っていましたが、アメリカが局外中立を解除したため、「甲鉄艦」が新政府に渡されることとなり、一挙に海軍力が高まりました。

 甲鉄を含む新政府海軍は、蝦夷政権が計画した甲鉄艦奪取のための奇襲作戦から起きた宮古湾海戦に勝利し、3月26日27日に青森港に入港しました。

 こうして、蝦夷地進攻の態勢が整った新政府軍は、4月6日に第一陣1500名が青森を出航し、9日に江差北東の乙部に上陸しました。

 下写真は、五稜郭タワーの歴史回廊にある乙部上陸のジオラマです。

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 蝦夷政権は新政府軍を向かい討ちましたが、多勢に無勢、さらに海からの艦砲射撃もあり、太刀打ちできませんでした。

 新政府軍は、江差に向かい、江差を守備していた蝦夷政権は戦わず松前に退却しました、

 新政府軍の第二陣400名が4月11日に江差に向かい、第三陣約3000名が4月15日に出港しました。

 こうして、本格的な新政府軍の攻撃が始まりました。

 


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# by wheatbaku | 2017-09-04 20:23 | 『幕末』 | Trackback
蝦夷政権樹立(箱館戦争史跡めぐり⑨)

蝦夷政権樹立(箱館戦争史跡めぐり⑨)

箱館戦争の歴史について、今日は蝦夷政権の樹立について書きます。

 松前藩との戦いに勝利した旧幕府軍は、五稜郭に凱旋しました。

 そして、蝦夷地全島が旧幕府軍により占領されたため、12月15日、蝦夷地領有宣言式が行われました。

そして同日、士分以上の者の入札(投票)によって蝦夷地経営のための首脳部が選ばれました。

 その結果、総裁に榎本武揚、副総裁には松平太郎がなり、それ以下の首脳は次の通りでした。

総裁    榎本武揚

副総裁    松平太郎

海軍奉行  荒井郁之助

陸軍奉行  大鳥圭介

陸軍奉行並 土方歳三

箱館奉行   永井尚志

松前奉行   人見勝太郎

開拓奉行  澤太郎左衛門

海軍頭並  甲賀源吾、古川節蔵等

歩兵頭    古屋佐久左衛門ほか

歩兵頭並   伊庭八郎、星恂太郎等

砲兵頭並   中島三郎助ほか

器械頭並  渋沢成一郎ほか

 榎本武揚に同行した人の中には、元老中の板倉勝静や小笠原長行、前桑名藩主松平定敬、請西藩主林忠崇などがいましたが、彼らは、一人も選出されていないのが、注目されます。

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 この政権を、「蝦夷共和国」と評価する説もあります。江戸検お題のテキスト「疾走!幕末・維新」にも、「のちに『蝦夷共和国』と呼ばれるようになる」と書かれていて、「共和国」と評価する説にたっているように思われます。

しかし、「共和国」ではないという説のほうが有力のように思われます。

ご参考にいくつか紹介します。

石井孝著「戊辰戦争論」では、「『蝦夷政権』の役員が公選されたことから、この政権を『蝦夷共和国』とよぶものもあるが、役員を公選したのが士官であることからも、このような名称をもちいるのは誤りである」と明確に否定しています。

また、函館市史には次のように書かれています。

 終始「徳川脱藩家臣」を標傍した彼らの仮政権には「蝦夷共和国」と呼べるようなものはなく、公選という行為のみに目を奪われた幻影のようなものである。しかもこの入札による公選は、入札者が士官以上(脱走軍総数の3分の1ほどか)に限定され、箱館市民はさて置き、脱走軍だけをとっても共和制といえるような公選ではなかったのである。

 12月15日に樹立された政権が「共和国」かどうかはともかく、この日、全島平定を告げる101発の祝砲が、箱館の冬空にこだまし、港内の船は五色の旗が翻えりました。

また、五稜郭周辺では、騎乗の幹部が率いる賑々しい行進も行なわれ、五稜郭では、各国領事、外国艦隊の上級士官、箱館の有力市民などが招かれ、盛大な祝賀会が催されたようです。

最上段写真は、五稜郭タワーの歴史回廊のジオラマです。榎本武揚はじめ蝦夷政権の幹部の記念撮影の様子です。


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# by wheatbaku | 2017-09-01 18:01 | 『幕末』 | Trackback
松前城攻略と開陽沈没(箱館戦争史跡めぐり⑧)

松前城攻略と開陽沈没(箱館戦争史跡めぐり⑧)

箱館と五稜郭を占領した旧幕府軍は、土方歳三を総指揮者とした700名の部隊が、松前城攻撃に向かいました。大鳥圭介は五稜郭に残りました。

土方歳三が率いた部隊は、彰義隊、額兵隊、陸軍隊などでした。

松前城攻撃に向かう部隊に新選組は含まれていません。しかし、攻撃軍の指揮は土方歳三がとりました。

もうすでに、土方歳三は、新選組の指揮者にとどまらず、旧幕府軍の重要な幹部になっていたのです。

11月5日、土方歳三ひきいる旧幕府軍は、松前城を攻撃します。

 この攻撃には、海からも回天と蟠龍が砲撃を加えました

 両艦の砲撃などにより城内では火災が生じ、その中を旧幕府軍がなだれ込み、松前城は陥落しました。

 松前藩兵は、江差にむけて落ちていきました。

この戦いで松前城下では火事が盛んとなり、城下の4分の3が焼失しました。

さらに15日には、旧幕府軍に備えて急造された館城も、松岡四郎次郎率いる一聯隊約200名の攻撃を受けて落城しました。

この戦いでは、左手に俎板、右手に大刀をふりかざして、今弁慶さながら奮戦、戦死した松前法華寺住職の三上超順の名が伝えられています。

五稜郭タワーの歴史回廊にもジオラマで三上超順の門前で奮戦する姿が描かれています。

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1119日、松前藩主松前徳広は、蝦夷地を離れ、津軽まで逃れ、弘前の薬王院に入りました。まもなく、松前徳広は肺結核が悪化し25歳の若さで病死しました。

こうした陸軍の速攻と奮闘によって松前攻略に成功しましたが、旧幕府軍には海で悲劇が起こりました。

陸軍の江差攻撃の応援のため江差沖に碇泊中の開陽が、15日夜暴風雨に襲われて座礁し、数日後に沈没してしまったのです。

開陽はオランダで建造された軍艦で、当時世界でも最新鋭の軍艦で、開陽の進水式はオランダで話題になったほどです。

当然のことながら日本でも最新鋭で、榎本武揚および同行の旧幕府軍全員が最も頼りにしていた軍艦です。

これがあっけなく沈没してしまいました。

しかも開陽の救援に向かった神速丸も座礁し沈没してしまいました。旧幕府軍にとっては大きな痛手でした。

この開陽沈没はあまりにも衝撃的であったため、江差攻略を指揮していた土方歳三が、沈没する開陽を眺めながらそばにある松の木を殴りつけたという逸話が残っています。

下写真は、五稜郭タワーの歴史回廊のジオラマですが、土方歳三がこぶしを松にたたきつけている場面を描いています。

この時の松は、現在も江差町郷土資料館の前に「土方歳三嘆きの松」として現存しているそうです。

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# by wheatbaku | 2017-08-29 21:57 | 『幕末』 | Trackback
文京学院大学で「疾走!幕末・維新」講義しました。

文京学院大学で「疾走!幕末・維新」講義しました。

昨日は、文京学院大学生涯学習センターで、「疾走!幕末・維新 薩摩編」という講座があり幕末・維新についてお話してきました。

 江戸検の今年のお題が「疾走!幕末・維新」ですので、それとタイアップした講座で、座学が2回、史跡散歩が1回の合計3回の連続講座で、昨日が第1回でした。

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 講座を受講された方は30人でしたが、会場でお顔を拝見すると知っている人が半数以上いましたので、ほっとしました。

 また、6年ぶりに元気な姿を拝見できた方もいて、大変うれしく思いました。

 

 タイトルは「幕末・維新」となっていますが、講座内容は戊辰戦争に限りお話をすることになっていて、座学が2回ですので、鳥羽伏見の戦い、江戸城無血開城、上野戦争を第1回で、北越戦争、会津戦争、箱館戦争を第2回で講義するという組み立てにしました。

 昨日は、第1回目ですので、鳥羽伏見の戦い、江戸城無血開城、上野戦争について解説しました。

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 この講座のお話は、昨年の暮にいただいた話でした。

そこで、それ以来戊辰戦争ゆかりの地、鳥羽伏見、桑名、長岡、白河、会津、仙台、函館を訪ねて史跡を見てきました。

 そこで、私自身は、現地の様子を頭に浮かぶことができますが、これを受講される人たちにどう伝えられる苦労しましたが、現地の写真や地図を利用して、説明しました。

 講座終了後の感想では、現地の様子が理解できたというご意見もありましたので、ほっとしています。

 鳥羽伏見の戦いは、戦いの経緯のほか、勝敗を決定づけた錦の御旗がどのように作成されて戦場に登場したのかということにも触れて説明しました。

 また、江戸城無血開城については、西郷隆盛の当初の厳しい態度と旧幕府側の徳川慶喜助命嘆願の動きについて説明しました。

 上野戦争については、史跡散歩が上野であるので、その散歩を前提に江戸時代の切絵図も利用して説明しました。

 受講された皆さんの半分は知り合いの方でしたので、熱心に聞いてくれましたが、初めての方も非常に熱心に聞いてくださり、帰りがけに「1時間半が短く感じられました」とわざわざお礼をいってくださった方もありました。

 講義を聞いていただいた皆様、ありがとうございました。




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# by wheatbaku | 2017-08-27 11:29 | Trackback
五稜郭入城(箱館戦争史跡めぐり⑦)

五稜郭入城(箱館戦争史跡めぐり⑦)

今日は、旧幕府軍の五稜郭入城について書いていきます。

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10月20日に鷲ノ木沖に到着した榎本艦隊は、人見勝太郎を使者として箱館府に派遣し、翌日21日に全部隊が上陸しました。

この時期の箱館はすでに新政府に接収されていました。

慶応4年閏4月、最後の箱館奉行杉浦誠は、旧幕府の指示で、新たに箱館府知事に任命された新政府の清水谷公考に、五稜郭にある箱館奉行所を引き渡していました。

旧幕府軍は、この清水谷公考あてに嘆願書を提出するために使者を派遣したのです。

 人見勝太郎を派遣した後、旧幕府軍は、本隊と分隊に分れ、本隊は大鳥圭介が指揮し伝習隊・遊撃隊・新撰組が、大沼の西を通って五稜郭への本道を進み、海沿いの道を通って五稜郭へ向かう分隊は土方歳三が額兵隊などを指揮して進軍しました。

 10月22日の夜、旧幕府軍の本隊と新政府軍は、峠下村(亀田郡七飯町)で戦闘状態に入ります。

新政府軍が人見隊を夜襲したのが箱館戦争の始まりです。

しかし、新政府軍の夜襲は失敗し、旧幕府軍の追撃を受けることになりました。

大鳥圭介は、10月24日、部隊を2つに分けて、大野村(同郡大野町)と七重村(七飯町)に進軍します。

大野村には大鳥率いる伝習士官隊と伝習歩兵隊が向かい、七重村には人見勝太郎が指揮する遊撃隊・新撰組・工兵隊が進みました。

大野村の新政府軍は五稜郭へ引揚命令があったため、大鳥圭介隊は楽勝でした。

一方、七重村では両軍が激突し、数に勝る新政府軍が優勢で旧幕府軍は苦戦を強いられますが、斬りこみによる白兵戦で形勢を逆転し、新政府軍は敗退しました。

 敗戦の報せを受けた清水谷知事は、25日青森への撤退することにします。

諸藩の兵も外国船に高い乗船料を払って、次々に箱館港から脱出しました。

七重村に集結した旧幕府軍の大鳥圭介隊は、五稜郭を攻めるに慎重に対応し、25日は、五稜郭近くまで前進しただけです。

そして、10月26日、いよいよ総攻撃にかかり、五稜郭に向かいましたが、五稜郭はもぬけのからで、無血入城することができました。

一方、海沿いの道を進んだ土方歳三が指揮する額兵隊等の部隊は、新政府軍の抵抗はなく、25日には湯の川まで到着しており、26日、土方歳三が五稜郭に入城しました。
 鷲ノ木沖で舵の修理をしていた開陽は11月1日箱館に入港し、榎本武揚も五稜郭に入城しました。

 五稜郭タワーの歴史回廊には、五稜郭入城時のジオラマが展示されています。

 上段の写真と下の写真が、そのジオラマです。

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# by wheatbaku | 2017-08-25 19:47 | 『幕末』 | Trackback
8月の獏塾ゼミが開催されました。

8月の獏塾ゼミが開催されました。

日曜日に 獏塾ゼミが開催されました。

獏塾ゼミは、江戸検1級合格をめざして勉強しているグループ「獏塾」で、塾生同志で勉強しましょうということで開催していますが、4月から6月までは『江戸博覧強記』について勉強し、7月と8月は今年のお題の「幕末・維新」について勉強しました。

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先日の獏塾ゼミは、今年の最後のゼミですが、蝦夷っ子さん(下写真)を講師にして「幕末・維新」の2回目で「徳川慶喜の将軍就任から戊辰戦争終了まで」について勉強しました。

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蝦夷っ子さんは、お題のテキストからの重要項目をピックアップした資料のほか、独自に作成した年表や地図を資料として懇切に説明してくれました。

いつもの通り、わかりやすい説明で、よかったです。

それは私だけの感想でなく、参加者の皆さんもそう感じたようです。2回の講義で「幕末・維新」について理解がふかまったと大変好評でした。

 中嶋さん、豊富な資料の作成と講義ありがとうございました。

 続いて、本郷の主殿さん(下写真)担当の模擬試験出題と解説です。

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 今回の模擬試験は、「幕末・維新」関連が半分、過去問が半分でした。

 「幕末・維新」では太田垣蓮月について出題され、多くの参加者が苦心したようです。

しかし、主殿さんの解説で理解が深まったようで、帰りがけに大分話題となっていました。

 また、過去問を題材に、書き誤りやすい漢字や難読文字などの記述問題についても解説してもらいました。

 問題を解くうえで大変参考になるお話しでした。

 本郷の主殿さん、注意すべき点の指摘、ありがとうございました。

 ゼミの最後は、キネマっ子さん(下写真)の合格体験談です。

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 キネマっ子さんは、一点深堀の名人で、あることに注目すると徹底して究明するので、日頃からおもしろい話題を提供してくれるのですが、合格体験談もユニークで面白かったです。

 六弥太格子のハンカチを利用したり、歴史上の人物の系図を作成したり、独自の履歴書を作成するなどというのはユニークな勉強方法を紹介してくれました。

 しかし、最後の2カ月間は、『江戸博覧強記』などの受検勉強まっしぐらだったということが付け加えられて、さすが合格者だと思いました。

 キネマっ子さん、おもしろいお話し一杯ありがとうございました。

 この後、懇親会がいつもどおり開催されました。私は、ちょっと事情があって懇親会は出席できませんでしたが、いつもどおり大変盛り上がったようです。

 獏塾ゼミにご参加の皆さん、大変お疲れ様でした。


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# by wheatbaku | 2017-08-22 10:55 | Trackback
榎本艦隊、蝦夷地上陸(箱館戦争史跡めぐり⑥)

榎本艦隊、蝦夷地上陸(箱館戦争史跡めぐり⑥)

 箱館戦争史跡めぐりですが、今までは史跡を順に紹介してきましたし、これからも史跡を紹介していく予定です。 

しかし、箱館戦争の経緯を先に書いておいたほうがよいと思いました。

そこで、これからは何回かに分けて箱館戦争の経緯を書いていきます。

 箱館戦争は、榎本艦隊が、明治元年10月に蝦夷地に上陸したことから始まります。

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 榎本武揚は開陽、回天、蟠龍、千代田形の4隻の軍艦と美嘉保や咸臨など4隻の運送船、総計8隻で、慶応4年8月19日、品川沖を出港しました。

 この時、若年寄永井尚志、陸軍奉行並松平太郎らの要人が同乗しました。

そのほか彰義隊から分かれて振武軍を結成した渋沢成一郎、遊撃隊の伊庭八郎、さらに高田藩の神木隊も同乗していました。

 しかし、出航直後の暴風雨に遭遇し、美嘉保丸は銚子沖の暗礁に乗りあげ破船しました。この船に乗っていた伊庭八郎は上陸した後箱館に向かいました。

また、破損した咸臨丸は清水港に入港して新政府軍に拿捕されています。

旗艦開陽も梶を失って3日間漂流後26日仙台についています。

しかし、9月15日に仙台藩が降伏しました。

そのため、仙台に集まっていた老中板倉勝静と小笠原長行、京都所司代松平定敬などの要職経験者、土方歳三が率いる新選組、彰義隊、さらに仙台藩の額兵隊なども榎本武揚艦隊に合流しました。

そのため、榎本軍は総勢で3千名近くになりました。

榎本艦隊は、10月12日に石巻を出航しました。

途中宮古湾を経由したあと、10月20日に蝦夷地鷲ノ木の沖に到着しました。

榎本艦隊が直接箱館港に向かわなかったのは、一つには箱館港は開港されていて外国船も入港してところで戦闘が起こるのを避けたこと、さらに箱館港入口には弁天岬台場があり、そこからの砲撃を避けたためと言われています。

10月21日には、全軍は蝦夷地に上陸しました。

五稜郭タワーには、「五稜郭歴史回廊」というコーナーがあり、箱館戦争を中心として箱館の歴史がわかるようにジオラマが展示されています。

榎本軍が蝦夷地に上陸した様子も表現されています。

最上段の写真と下の写真は、そのジオラマを撮影したものです。

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# by wheatbaku | 2017-08-18 21:55 | Trackback
千代ケ岡陣屋(箱館戦争史跡めぐり⑤)

 千代ケ岡陣屋(箱館戦争史跡めぐり⑤)

 箱館戦争史跡めぐりの5回目は「千代ケ岡陣屋跡」を紹介します。

 函館駅から五稜郭にむかう市電の「「千代台(ちよがだい)」電停の近くにある千代台公園の陸上競技場近くに説明板が設置されています。(下写真参照)

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 昔は鶴が飛来する岡だったので、江戸中期に八代松前藩主の室自正院文子が「千世の岡」と名づけた所とされ、「干代ヶ岡」や「千代ヶ台」と呼ばれましたが、「千代ヶ岱(ちよがたい)」とも呼ばれたそうです。

 現在の説明板では、上記の写真でお分かりになると思いますが、「千代ケ岡陣屋跡」となっています。

千代ヶ岡陣屋は、幕府直轄時代の文化5年に蝦夷地出兵を命じられた仙台藩が陣屋を設営したのが最初になります。

その後、蝦夷地が再び幕府直轄となった安政2年に津軽藩が陣屋を設営しました。そのために津軽陣屋ともいわれたようです。

周囲には約3.6mの土塁が築かれ、その周りには約12メートルの堀が掘られていてき、そのなかに本陣や兵舎など建物がありました。

五稜郭を占領した榎本武揚軍は大砲を備えて陣営とし、中島三郎助らが守り、そして、ここで最期を遂げました。

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中島三郎助は、浦賀奉行所与力でした。嘉永6年、浦賀沖に突如現れた黒船に最初に乗り込みアメリカ側と交渉した経歴があります。その後、長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となりました。

江戸城無血開城後、榎本武揚と共に蝦夷地にやってきました。

そして、中島三郎助は箱館奉行並として千代ヶ岡陣屋の守備につきました。

明治2年5月11日の新政府軍の総攻撃により箱館市内の大部分が制圧されると、新政府軍は、中島三郎助に降伏勧告をしましたが、中島はそれを拒絶して戦闘を続け、516日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死しました。

「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残しています。

 陸上競技場近くの函館税務署の入口の緑地帯には、中島三郎助父子最後之地の石碑が建てられています。

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 毎年5月の箱館五稜郭祭では碑前祭が行われるそうです。

千代台公園の隣は中島町という町名で、中島小学校という小学校もありますが、これは中島三郎助に由来する町名です。

中島小学校のある場所が千代ケ岡陣屋の本陣があった場所だそうです。

明治時代には陣屋付近一帯が函館重砲兵連隊の陣地となり、第二次世界大戦後まで兵営所でしたが、戦後、競技場や野球場のある運動公園となったそうです。

町名も干代ヶ岱町だったが昭和43年千代台となったため、市電の電停も「千代台」となっています。



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# by wheatbaku | 2017-08-16 20:20 | 『幕末』 | Trackback
弁天岬台場(弁天台場)  (箱館戦争史跡めぐり④)

弁天岬台場(弁天台場)  (箱館戦争史跡めぐり④)

箱館戦争史跡めぐりの4回目には、弁天岬台場(もしくは弁天台場ともいうようです)について書いていきます。

 弁天岬台場は、現在の函館ドックの場所にありましたが、明治29年に港湾改良工事のため解体されました。

そのため、弁天岬台場そのものは残されていません。

函館市電「函館どつく前」電停のすぐそばの児童公園に「弁天岬台場跡」の説明板が設置されています。(下写真参照)

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 箱館奉行は安政元年12月9日、外国船に備える砲台などが整っていないとして、矢不来、押付、山背泊、弁天岬、立待岬、築島、沖の口番所の七か所をあげて、台場の修築ないし新築の必要を老中へ上申しました。

しかし、幕府は一挙に取りかかるのは無理と判断し、最も重要と思われる弁天岬、築島から築造することになりましたが、実際に着工できたのは弁天岬台場だけでした。

 弁天岬は港内第一の要地であるため、海岸の暗礁の上に、三方面に対応した台場を造れば、函館港と市中の防衛になると考えられました。

 台場の設計は五稜郭と同じ武田斐三郎が担当し、台場の建設費用は10万両の計画で、安政3年から工事が始まり、土や石は箱館山のものを使い、重要部分は備前御影石を大坂から運んで、文久3年に完成しました。

台場の形状は不等辺六角形をしていて、周囲は390間余(約710メートル)あり、高さ約37尺(約11.2メートル)ありました。

台場には、15個の大砲が据え付けられ、山背泊からと合わせて十字射撃できるという構想でした。大砲のうち数門はロシアのディアナ号に備えつけられた大砲を贈られたものでした。

 箱館戦争では、榎本武揚艦隊は、明治元年10月20日に蝦夷地鷲ノ木に錨をおろし、翌日上陸しますが、直接、箱館に向かわなかった大きな理由の一つに箱館港には弁天岬台場があり、そこからの砲撃を避けることがあったようです。

 榎本武揚軍が五稜郭に入城してからは、新選組など守備しました。

新政府軍が総攻撃をかけてきた明治2年5月15日に弁天岬台場は海上と箱館山側から攻撃されて台場に立て籠もっていた新選組さらに箱館奉行であった永井尚志らは降伏しました。

 このため、新選組にとって最後の拠点でした。そこで近くの児童公園の弁天台場の説明板の脇には「新選組最期の地」と書かれた標柱が建てられていました。(下写真参照)

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弁天台場には、明治20年まで陸軍省函館砲隊が入り、明治29年港湾改良で壊され、跡地に函館ドックができました。

この時の港湾改良を記念した石碑「函館港改良工事記念碑」が防波堤そばに設置されています。石碑の石は、弁天台場の土塁石垣に使用されていた備前産の御影石を再利用したものです。(写真右手が記念碑です)

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# by wheatbaku | 2017-08-14 19:00 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
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