雲井龍雄の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑦)

雲井龍雄の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑦)

 谷中霊園に眠る幕末の有名人の第7回は雲井龍雄のお墓です。

 雲井龍雄は、知る人ぞ知るというレベルの人物であったと思っていましたが、今年の江戸検のお題テキスト「疾走!幕末・維新」の中で取り上げられましたので、江戸検を受検された方は、その名前を覚えたことだろうと思います。

雲井龍雄は米沢藩士で本名は小島守善といい、雲井龍雄は変名ですが、本名より変名の雲井龍雄の方が有名です。

雲井龍雄のお墓は、谷中霊園の中央を通る桜通り沿いの天王寺五重塔跡と霊園管理事務所のちょうど中間あたりにあり、上部に「龍雄雲井君之墓」と刻まれています。(下写真)

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雲井龍雄は、弘化元年(1844)米沢藩士中島総右衛門の次男として生まれ、文久元年(1861)に小島家の養子となりました。

慶応元年(1865)には、江戸に遊学して安井息軒の三計塾に学びました。三計塾は江戸で有名な塾でした。土佐藩の谷干城、紀州藩の陸奥宗光、長州藩の品川弥二郎などが学んだことがあります。雲井龍雄はそこで塾頭を勤めています。

慶応3年(1867)探索方として京都に出張し、薩長土諸藩の動向を探索しました。この中で、薩摩藩への憤激を強めていったようです。

王政復古の大号令の後、明治新政府が慶応4年に定めた貢士にもなっています。

 慶応4 年、新政府軍の会津征討の動きに憤激して米沢に帰ったが、米沢藩は越後で新政府軍と戦っていたため、「討薩ノ檄」を作成して奥羽越列藩同盟の奮起を促しました。

しかし、米沢藩が降伏したため、抗戦派であった雲井龍雄は米沢に謹慎を命じられました。

明治2年に謹慎が赦された後に、東京に出て集議院の寄宿生となりますが、すぐに辞任し、「帰順部曲点検所」を組織し、戊辰戦争で敗れた人々の救済を行いつつ新政府に嘆願を続けます。

しかし、「帰順部曲点検所」は、不平士族との溜り場となり、政府転覆を企てていると疑われたため、雲井龍雄は謹慎を命じられ米沢に護送されました。

雲井龍雄は、謹慎中も自分の考えを訴え続けたため、東京に護送され明治2年12月28日に梟首刑となり、小塚原の回向院に埋葬されました。

その後、明治16年に、谷中天王寺に改葬されました。谷中霊園にあるお墓は供養塔ではなく本当のお墓のようです。

雲井龍雄を主人公とした藤沢周平の「雲奔る」という小説があります。

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藤沢周平は山形県出身であり、藤沢のあとがきには、「私の郷里から、明治維新・・・に、志士として積極的にかかわった人が二人いる。一人は清河八郎であり、一人が雲井龍雄である。(中略)龍雄に対する長い間の一種の気がかりのようなもの、それがこの小説を書かせたことになろうか」と書いてあります。

雲井龍雄の生き様が克明かつ淡々と描かれた小説です。


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# by wheatbaku | 2017-11-22 10:02 | 『幕末』 | Trackback
大原重徳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑥)

大原重徳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑥)

しばらく、江戸検関係の記事を書いてきたため、谷中霊園に眠る有名人が阿部正弘で中断していましたが、今日から、続きを書いていきます。

今日は、大原重徳(しげとみ)のお墓について書いていきます。

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大原重徳のお墓は、徳川慶喜の墓地の西側にあります。

大変大きなお墓ですし、墓所の入口(南側)には、台東区教育委員会の説明板が設置されています。(下写真)

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大原重徳は、享和元年(1801)10月16日、大原重尹の五男として生まれました。

孝明天皇から重用され、安政元年(1854)4月勅命により、内裏炎上後の造営を差配しました。

安政5年(1858)2月5日、時の老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を求めて上洛しました。これに対して条約に反対する88人の公卿が3月12日突如参内しました。これが八十八卿列参奏上と言われるものですが、この八十八卿列参奏上に大原重徳も参加していました。

文久2年(1862)朝廷が島津久光の公武合体の建言をいれ、幕府に勅使を派遣することになった際に、大原重徳が勅使に任ぜられ、島津久光とともに江戸に赴き幕府に徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政治総裁職に就任させるよう要求し、7月に徳川慶喜が将軍後見職、9月に松平春嶽が政治総裁職に就任ました。

 勅使として江戸にいる際に、長州藩世子毛利定広が持参した勅書の中に島津久光を批判する文字があったため、薩長の対立を避けるためこれを削除し、勅書を改文しました。

このことにより、のちに処罰されることになります。

大原重徳は、8月帰京復命し、12月には、新設の国事御用掛に任命されましたが、翌年、勅書を改文した罪により辞官落飾しました。

元治元年(1864) 1月許されて、還俗して出仕しました。

第2次長州征伐戦後の慶応2年(1866)8月、親幕派の関白二条斉敬,朝彦親王の追放するため、中御門経之とともに二十二卿列参奏上を主導しましたが失敗しまたも閉門とされました。

慶応3年(1867)12月の王政復古の大号令で、新政府の参与に任命されました。

それ以降、笠松裁判所総督、刑法官知事、議定(ぎじょう)、上局議長、集議院長官などを歴任し、維新の功により賞典禄1000石を永世下賜されました。

明治3年に退官し、麝香間祗候(じゃこうのましこう)となりました。

麝香の間祗候というのは、維新に功労のあった人などに与えられた資格で、麝香間に祗候し、天皇の相手などをした名誉職です。

明治12年4月1日、79歳で死去しました。


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# by wheatbaku | 2017-11-20 09:25 | 『幕末』 | Trackback
箕作阮甫(津山藩の洋学④)

箕作阮甫(津山藩の洋学④)

今日は、津山藩の洋学の4回目で、箕作阮甫(みのつくりげんぽ)について書きます。

前回まで書いてきた宇田川家三代は、江戸詰の津山藩医でしたが、今回書いていく箕作阮甫は、津山で生まれました。

津山藩藩医箕作貞固の三男として生まれ、父貞固が早くなくなり、兄も亡くなったため、箕作阮甫は12歳で家督を継ぎ、京都で吉益文輔に漢方医学を学び、文政5(1822)藩医となりました。

翌年江戸に出府し,宇田川玄真について蘭学を修め、天保4年(1833)には、宇田川榕庵の『植物啓原』の序文を書くほどまでになりました。

天保10年(1839)蛮社の獄で自殺した小関三英の後任として、幕府天文方蕃書和解御用を命ぜられ、外交文書の翻訳に当たりました。

嘉永6年(1653)のペリー来航の際には、フィルモア大統領の親書を杉田成卿、宇田川興斎とともに翻訳しました。

また、ペリー来航後まもなくの嘉永6年7月にロシアのブチャーチンが長崎に来航した際には、川路聖謨の従者として長崎に出張し対露交渉に活躍しました。ついで10月にプチャーチンが下田に来航した際にも、川路聖謨に随行して下田に出張しています。

安政2年(1855)4月に家督を養子の秋坪に隠居しましたが、安政3年に蕃書調所が創立され、教授として召出され、頭取の古賀謹一郎を助けることになります。

安政5年(1858)、お玉ヶ池種痘所が開設されますが、このお玉ヶ池種痘所の設立は、伊東玄朴、大槻俊斎、戸塚静海などともに箕作阮甫も中心人物となってできたものです。

お玉ヶ池種痘所は、川路聖謨の屋敷に開設されたのですが、箕作阮甫は、プチャーチンの応接のため、川路聖謨に従って、長崎や下田に出張しており、こうした関係も大きく影響していると考えられています。

文久2年(1862)、幕臣に取り立てられましたが、津山藩出身の洋学者で幕臣になったのは箕作阮甫が最初でした。

幕臣に取り立てられた翌年の文久3年6月17日になくなり、江戸白山の浄土寺に葬られましたが、現在は多摩霊園に改葬されています。


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# by wheatbaku | 2017-11-17 10:49 | Trackback
宇田川榕庵(津山藩の洋学③)

宇田川榕庵(津山藩の洋学③)

今日は、津山藩の洋学の3回目で、宇田川榕庵について書きます。

この宇田川榕庵が、今回の江戸検で出題された人物です.
宇田川榕庵の「榕庵」は、「榕菴」とも書き、「榕菴」の割合が多いようにも思いますが、江戸検の問題では「宇田川榕庵」となっていますので、ここでは「宇田川榕庵」として書いていきます。

宇田川榕庵は、大垣藩医江沢養樹の子供として生まれました。

14歳で宇田川玄真の養子となり、文化14年(1817)津山藩医となりました。

江戸のマルチ学者ともいわれる宇田川榕庵の著述書は、数多くありますので、代表的なものだけを紹介していきます

『哥非乙(こうひい)説』 

この本は、文化13年(1816)つまり、宇田川榕庵が津山藩医になる前年に書いたコーヒーの産地、効用を説いたものです。宇田川榕庵はわずか19歳のときでした。

Coffeeの日本語表記である「珈琲」は、宇田川榕菴が考案し蘭和対訳辞典で使用したのが最初であると言われています。この辞書は、現在早稲田大学の図書館に「博物語彙」という資料名で所蔵されているそうです。

『西説菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』と『植物啓原』 

宇田川榕庵はショメルの百科事典を読んで、西洋には実用的な本草学とは別に、植物自体の構造や生理を探求する植物学があることを知り、日本初の植物学書『西説菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』(経文形式)を文政5年(1822)に出版しました。

「菩多尼訶(ぼたにか)」というのは、ラテン語で植物学を意味するbotanica からとったものです。「経」となっているのは、お経のように折り本形式となっていることからつけた名前です。

そして天保5年(1834)に本格的な植物学書『植学啓原』を出版しました。

こうした植物学についての書物の中で、現在も使われている雌花、雄花、花柱、葯、柱頭などの訳語が作られています。

『舎密開宗(せいみかいそう)』

天保5年(1834)に、宇田川榕庵は、宇田川玄真を手伝って薬学書『遠西医方名物考』の補巻を刊行します。

『遠西医方名物考補遺』巻79は「元素編」には元素のことが書かれています。

この「元素」も榕菴の作った言葉で、そのほかに、酸素、窒素、水素、炭素、分析、気化、酸化、酸、アルカリ、中和、塩、酸化物など今日も使われている化学の基礎的用語が宇田川榕庵によって作られました。

 その3年後の天保8年(1837)からは、日本で最初の本格的な化学書『舎密開宗』の出版を始めました。「舎密」とはオランダ語の「セーミ」に当て字をしたもので、セーミとは化学のことです。『開宗』とは「ひらく」という意味です。

 『舎密開宗』は初篇から六篇18巻を刊行した後、外篇3巻まで刊行されます。

この『舎密開宗』の刊行は、榕菴が亡くなったために途中で中断してしまいますが、宇田川榕庵によって日本の近代化学が始まっているのです。

以上が代表的な書物ですが、こうした実績のほか、宇田川榕庵は、文政8年(1825)に養父宇田川玄真とともに日本ではじめて現在の化粧せっけんに近い品石鹸を製造しています。

宇田川玄真と宇田川榕庵が作った石鹸は、薬用と使用されたようです。

また、宇田川榕庵はシーボルトとも親交がありました。

シーボルトが、文政9年(1826)にオランダ商館長の江戸参府に従って江戸に滞在した際に、宇田川榕庵は、本石町の長崎屋を訪ね、シーボルトと交流しました。

シーボルトが贈った顕微鏡が、現在も早稲田大学図書館に残されているようです。

宇田川榕庵には実子はなく、大垣藩医飯沼慾斎(よくさい)の子興斎を養子に迎え、弘化3年(1846 622日に49歳の若さで亡くなりました。

宇田川玄真の弟子で江戸で蘭学塾を開いて緒方洪庵や川本幸民などを育てた坪井信道は、緒方洪庵に「残念千万」と、その死を悼んでいます。



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# by wheatbaku | 2017-11-15 11:36 | 『幕末』 | Trackback
宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 今日は、津山藩の洋学の2回目として宇田川玄真について書きます。

 宇田川玄真は、伊勢の安岡家に生まれ、江戸で、大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周などについて蘭学を学びました。

杉田玄白からはその才能を見込まれ婿養子になります。

しかし、放蕩をくりかえし身を持ち崩したために杉田玄白から勘当され離縁されます。

この苦境の宇田川玄真を救ったのが稲村三伯です。

宇田川玄真は、稲村三伯が編纂していた日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』にも従事し、『ハルマ和解』の完成に貢献しました。

寛政9(1797)に宇田川玄随が亡くなりましたが、跡継ぎがなかったため、宇田川家の家名断絶が危惧されました。そこで、大槻玄沢らの斡旋により宇田川家を継ぐことになり、榛斎と号しました。

宇田川家を継いだ宇田川玄真は、宇田川玄随の「西説内科撰要」を完成させました。

そして、宇田川玄真は、日本の解剖学の基礎を築いた『医範提綱』を刊行しました。これは、解剖学の基礎を書いたもので、図が銅版画がきれいなものでした。

また、日本初の西洋薬学書『和蘭薬鏡』を著して、西洋薬物の製法・処方を初めて明らかにしたものです。このほか、最初の西洋小児科学書「小児諸病鋻法治療全書」、最初の西洋眼科書「泰西眼科全書」を刊行しました。

宇田川玄真は、幕府天文方の蕃書和解御用にも出仕し、幕府によるフランス人ショメルの「日用百科全書」を和訳した『厚生新編』の翻訳作業に従事しました。

 宇田川玄真は、のちに宇田川玄真の養子となる宇田川榕庵、坪井信道、箕作阮甫、緒方洪庵など多くの蘭学者を直接育成しました。


 膵臓(すいぞう)の「膵」やリンパ腺の「腺」という和製漢字をつくったことでも知られています。

「膵」という字は,江戸時代に宇田川玄真によって造られた和製漢字で,『医範提綱』に初めて載せられたものだそうです。

東洋医学には「膵臓」という概念はなくて、いわゆる五臓六腑に入っていませんでした。そこで、宇田川玄真は、原語のpancreas(pankreas)から、「膵」という字を考案しました。萃は「集まる」という意味で,月(にくづき)と合わせて「膵」は「肉の集合したもの」という意味を表し、原語と同じように,「すべてが肉からなる」ということを表したものだそうです。

 こうした功績から宇田川玄真は「蘭学中期の大立者」とも「江戸蘭学界中興の祖」とも称されました。

 宇田川玄随からの津山藩の洋学の伝統は「御家光之御筋」と「草創之著述」ですが、宇田川玄真も「草創之著述」をなして、「御家光之御筋」をたてたのでした。


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# by wheatbaku | 2017-11-13 11:46 | 『幕末』 | Trackback
宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 今日は、津山藩の洋学の2回目として宇田川玄真について書きます。

 宇田川玄真は、伊勢の安岡家に生まれ、江戸で、大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周などについて蘭学を学びました。

杉田玄白からはその才能を見込まれ婿養子になります。

しかし、放蕩をくりかえし身を持ち崩したために杉田玄白から勘当され離縁されます。

この苦境の宇田川玄真を救ったのが稲村三伯です。

宇田川玄真は、稲村三伯が編纂していた日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』にも従事し、『ハルマ和解』の完成に貢献しました。

寛政9(1797)に宇田川玄随が亡くなりましたが、跡継ぎがなかったため、宇田川家の家名断絶が危惧されました。そこで、大槻玄沢らの斡旋により宇田川を継ぐことになりました。榛斎と号しました。

宇田川家を継いだ宇田川玄真は、宇田川玄随の「西説内科撰要」を完成させました。

そして、宇田川玄真は、日本の解剖学の基礎を築いた『医範提綱』を刊行しました。

これは、解剖学の基礎を書いたもので、図が銅版画がきれいなものでした。

また、日本初の西洋薬学書『和蘭薬鏡』を著して、西洋薬物の製法・処方を初めて明らかにしたものです。

このほか、最初の西洋小児科学書「小児諸病鋻法治療全書」、最初の西洋眼科書「泰西眼科全書」を刊行しました。

また、宇田川玄真は、幕府天文方の蕃書和解御用にも出仕し、幕府によるフランス人ショメルの「日用百科全書」を和訳した『厚生新編』の翻訳作業に従事しました。

 また、宇田川玄真は、のちに宇田川玄真の養子となる宇田川榕庵、坪井信道、箕作阮甫・緒方洪庵など多くの蘭学者を直接育成しました。

そのため、「蘭学中期の大立者」とも「江戸蘭学界中興の祖」とも称されました。

 膵臓(すいぞう)の「膵」やリンパ腺の「腺」という和製漢字をつくったことでも知られています。

「膵」という字は,江戸時代に宇田川玄真によって造られた和製漢字で,『医範提綱』に初めて載せられたものだそうです。

東洋医学には「膵臓」という概念はなくて、いわゆる五臓六腑に入っていませんでした。そこで、宇田川玄真は、原語のpancreas(pankreas)から、「膵」という字を考案しました。萃は「集まる」という意味で,月(にくづき)と合わせて「膵」は「肉の集合したもの」という意味を表し、原語と同じように,「すべてが肉からなる」ということを表したものだそうです。

 宇田川玄随からの津山藩の洋学の伝統は「御家光之御筋」と「草創之著述」ですが、宇田川玄真も「草創之著述」をなして、「御家光之御筋」をたてたのでした。


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# by wheatbaku | 2017-11-13 11:46 | 『幕末』 | Trackback
「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩⑥」巣鴨駅編

「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩⑥」巣鴨駅編

 

昨日は、毎日文化センターの江戸散歩講座「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」がありました。
 この江戸散歩は、山手線の各駅をスタート地点として、駅周辺の江戸にゆかりの史跡を訪ね歩くもので、この秋は、第2ステージに入っています。昨日は、巣鴨駅を出発して西巣鴨から飛鳥山まで散歩してきました。

晴天の下、参加された受講者の皆さんと楽しく散歩できました。

下写真は、飛鳥山公園にある飛鳥山碑での説明の様子です。

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昨日のコースは、次の通り、西巣鴨の寺町を中心に飛鳥山までご案内しました。

 巣鴨駅 ⇒ 眞性寺(六地蔵) ⇒ 高岩寺(とげぬき地蔵) ⇒ 庚申塚 ⇒ 西方寺(万治高尾の墓)⇒ 盛雲寺(新門辰五郎の墓)⇒ 妙行寺(お岩さんの墓、浅野家の墓)⇒ 善養寺(閻魔像、尾形乾山の墓) ⇒ 都電で移動 ⇒ 渋沢史料館 ⇒ 船津伝次平顕彰碑 ⇒ 飛鳥山碑 ⇒ 佐久間象山の桜賦の詩碑 ⇒ 王子駅

眞性寺(六地蔵) 

 江戸六地蔵で有名な眞性寺では、菊まつりが開催されていて、大勢の参拝客でにぎわっていました。

六地蔵は巣鴨の眞性寺、品川の品川寺、吉原の東禅寺、新宿の大宗寺、深川に二つ霊巌寺と永代寺に建立されました。

眞性寺のお地蔵様は正徳4年(1714)に4番目に建立されました。300年以上たっているにことなります。建立は4番目ですが、江戸六地蔵参りという巡礼がありますが、それでは参拝順序は3番目になります。

以下、西巣鴨の寺町での主な案内場所をご紹介します。

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西方寺〔高尾大夫の墓〕

高尾太夫は、吉原の三浦屋に代々伝わる太夫の名前で、高尾太夫は11代続いたともいわれています。西方寺に眠っているのは、高尾太夫の中でも最も知られている2代目の高尾太夫で、万治高尾とか仙台高尾とか呼ばれています。

万治高尾のお墓は、お地蔵様が彫られたお墓で、高尾の戒名「転誉妙身信女」はほどんど読み取れません。

西方寺は、昭和2年に浅草から西巣鴨に移転してきていますが、改葬した際に、女性の人骨と木製の櫛がでてきたそうです。

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盛雲寺(新門辰五郎の墓)

新門辰五郎は、町火消十番組の頭として大変有名です。

錺職人の子として下谷に生まれましたが、輪王寺宮に仕える町田仁右衛門の養子になり、本名は町田辰五郎といいますが、輪王寺宮が浅草寺の伝法院に隠居した際に伝法院に新しくできた門(新門という)の門番も勤めたことから、新門辰五郎と呼ばれるようになりました。

新門辰五郎は、幕末には、子分300人を連れて京都に行き、15代将軍徳川慶喜の警備の任につきました。鳥羽伏見の戦に旧幕府軍が敗れた際には、大坂城に放置されていた家康以来の大金扇の馬印を持って子分と共に陸路東海道を江戸に着いたことで有名です。

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妙行寺(お岩さんの墓)

妙行寺は、寛永元年に赤坂に創建され、江戸時代には四谷鮫ヶ橋にありましたが、明治40年現在地へ移転しました。

東海道四谷怪談で有名なお岩さんは、実在の人物で、寛永13年2月22日になくなり、妙行寺に葬られました。

お岩さんが出てくる「東海道四谷怪談」を鶴屋南北が書いたのは、お岩さんがなくなって約200年もの後です。

実在のお岩さんは、御家人の田宮又左衛門の娘で、旦那さんは田宮伊右衛門といいました。

妙行寺の説明によると、夫の田宮伊右衛門は、隣家の娘とねんごろになりお岩さんを虐待していて、お岩さんが36歳でなくなった2年後に伊右衛門も亡くなってしまい、最初、お岩さんの法名は「得証妙念」という簡単なものでしたが、田宮家には「災い」がたえなかったため、「得證院妙念日正大姉」と改めました。それからは、田宮家にも災いがなくなったといいます。

そうしたことから、現在も、お岩さんに塔婆を捧げ熱心に祈れば願い事が叶うということから多くの塔婆が捧げられています。

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妙行寺(浅野家の墓)

妙行寺には、赤穂藩浅野家の関係者のお墓もあります。

中央が、赤穂藩浅野家3代藩主浅野長直の奥方高光院殿の墓で、浅野内匠頭長矩のお祖母さんになります。左手が浅野内匠頭の正室瑤泉院の供養塔、右手が浅野内匠頭の弟浅野大学の奥方蓮光院殿のお墓です。

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善養寺(尾形乾山の墓)

 善養寺は、江戸三大閻魔のひとつとされる高さ約3メートルの木造閻魔王坐像(豊島区登録有形文化財)が本堂に鎮座しています。江戸三大閻魔は、善養寺と新宿御苑前の太宗寺、杉並区の華徳院です。

本堂の裏に、尾形乾山のお墓があります。

尾形乾山は、京都の呉服商雁金屋の3男として生まれました。兄は有名な尾形光琳です。

尾形乾山は、京都の御室仁和寺の門前に居を構え野々村仁清のもとで陶芸を学び、鳴滝で窯を開き、この地が京都の西北、乾の方角に位置するところから作品に「乾山」の銘を記しました。この時期の乾山の作品は兄光琳が絵付し、乾山が作陶するという合作が主体で,この時代の作品が鳴滝乾山と呼ばれています。

享保年間の中頃に江戸へ下向し入谷に住んで作陶し、この時期の作品は入谷乾山と呼ばれています。

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 以上、西巣鴨の寺々のご案内でした。



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# by wheatbaku | 2017-11-12 13:22 | 山手線一周駅から江戸散歩 | Trackback
宇田川玄随(津山藩の洋学①)

 宇田川玄随(津山藩の洋学①)


 今回の江戸検では、宇田川榕庵についての出題がありましたね。

 博覧強記には、宇田川榕庵の名前はありますが、酸素などの造語をしたり「珈琲」という語句を考えたことは書いていないので、この問題を少し難しいと感じた人もいるかもしれません。
 この宇田川榕庵は、津山藩の藩士です。


 慶応4年4月の江戸城開城後、徳川宗家の後見人になった松平確堂は津山藩の藩主でした。松平確堂を調べる中で、実は、津山藩は、「洋学の津山藩」もしくは「津山藩の洋学」と言われるほど洋学が盛んな土地柄ということを知りました。


 現在でも、津山市には、「津山洋学資料館」という博物館があるほどです。

 津山藩では、それほど、多くの洋学者を輩出しています。

その筆頭が宇田川三代、つまり宇田川玄随、宇田川玄真、宇田川榕庵の親子3代です。

宇田川家は代々漢方医の家系でしたが、宇田川玄随のとき蘭方医に転向しました。

玄随は西洋内科学を日本に紹介し、洋学は養子の玄真、榕庵へと受け継がれ、医学から自然科学へと宇田川家の家学を完成させていったのです。この三代を特に「宇田川三代」といいます。

その宇田川三代の基礎を築いたのが宇田川玄随です。

今日は、宇田川玄随について書きます。


宇田川玄随は、宇田川家蘭学の初代として、桂川甫周、前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢らと共に江戸蘭学勃興期に活躍しました。

津山藩医道紀(どうき)の長子として江戸に生まれる。父の没時に幼少だったため叔父玄叔が家督を相継、その養嗣子となって玄叔の没後に家督を継ぎました。


宇田川家は代々漢方医の家系でしたが、25歳のとき、西洋医学の学説に感服して学び始め、杉田玄白、前野良沢、桂川甫周に入門し蘭学を学びました。

特に桂川甫周はその才を愛し、ゴルテルの内科書の翻訳を勧めました。

宇田川玄随は刻苦10年して、わが国最初の西洋内科書刊本『西説内科撰要』全18巻を刊行しました。

ただし、江戸で刊行している途中で宇田川玄随が死んだことから大坂に移されて続刊され、養子宇田川玄真によって完結しています。


本書により本格的な内科学の原型が生まれ、その後の発展を促進しました。

また、内科系に強い宇田川家の学風を形成する基盤をつりました。

杉田玄白は回想録『蘭学事始』の中で、「(玄随は)漢学に厚く博覧強記の人」「鉄根の人ゆえ、その業大いに進み」と玄随のことを述べています。


寛政5年、『西説内科撰要』18巻のうち3巻が刊行された時点で、宇田玄随は、津山藩主松平康哉から「草創之著述」「御家光之御筋」として称賛され、御手当金15両が下賜されました。

これ以降、津山藩の学者たちにとって「御家光之御筋」のために「草創之著述」をなすことが大事とされ、それが求められるようになりました。

これ以降、新しい著作を仕上げて津山藩松平家の家名をあげることが、津山藩の蘭学者のモチベーションとなり、これ以降津山藩で蘭学・洋学が盛んになっていきます。

そうした中で宇田川玄真が活躍します。次回は、宇田川玄真について書きます。








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# by wheatbaku | 2017-11-08 20:25 | 『幕末』 | Trackback
箱館戦争を戦ったフランス人

 箱館戦争を戦ったフランス人

 江戸検が終わりましたが、受検された皆さん、よい結果であるといいと思います。

 今年は、過去問から出題が非常に多かったので、過去問も勉強していた方は、良い成績が取れて、合格できた方もいるのではないでしょうか。

今日は、江戸検前に書こうと思っていましたが、時間がなくてアップできていなかった箱館戦争に参加したフランス人10人について書きます。

 

 今回の江戸検1級の問題に、フランス軍人ジュール・ブリュネについての問題が出題されました。

 ブリュネについては、お題テキスト「疾走!幕末・維新」に書いてあるので、正解できた人が多いと思います。

 箱館戦争で旧幕府軍に参加して戦ったフランス人は10人と言われています。

 しかし、10人全員が最初からブリュネと行動したわけではなく、江戸から一緒に行動したのが1人、仙台で合流した人たちが3人、そして箱館で合流したのが5人でした。

 箱館戦争で戦った人たちのリーダーが、ジュール・ブリュネです。

ジュール・ブリュネは、フランスの砲兵大尉で、慶応3年、幕府のフランス軍事顧問団の副団長として来日し、幕府の伝習隊に対して訓練を行っていましたが、翌年戊辰戦争が始まるとフランス政府からの命令を無視して、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加します。

 このブリュネと一緒に江戸から箱館まで行動したのが、カズヌーヴです。

カズヌーブは、ナポレオン三世から徳川慶喜に送られたアラブ馬を持ってきたフランス王室付の馬丁でしたが、軍隊経験もあったようです。

 この二人が仙台まで行ったところで、横浜から船に乗って、フランス軍人3人が追いかけてきました。

 3人とは、③ジャン・マルラン、④ルテュール・フォルタン、⑤フランソワ・ブッフィエでした。

 3人は、軍事顧問団のメンバーとして来日し、ブリュネの指揮下にあった下士官でした。

 彼らが、ブリュネの命令で合流したのか、自主的に参加したのかは、はっきりしていないようです。

 蝦夷地を占領した後、ブリュネは旧幕府軍の顧問となり、軍事的な指導を行いました。

ブリュネは、旧幕府軍の陸軍を4つの連隊に分け、「レジマン」と名付けました。「レジマン」とは「連隊」を意味するフランス語です。

この4つの「レジマン」に、カズヌーヴと仙台で合流した3人を配属し、連隊の指揮のサポートさせました。

この5人に加えて、さらに5人のフランス人が参加しました。

この5人は、軍人でなく、民間人でした。

その5人とは、⑥ニコール、⑦コラシュ、⑧クラトー、⑨ブラディエ、⑩トリボーです。

彼らは、箱館にやってきた時は民間人でしたが、それぞれ、もと軍人であったようです。

この5人のうち⑥ニコール、⑦コラシュ、⑧クラトーは、海軍出身者であったため、それぞれ、榎本艦隊の「回天」「高雄」「蟠竜」に乗り組みました。

旧幕府軍は、新政府軍の「甲鉄艦」を奪取するため、宮古湾海戦を企画しましたが、この海戦の作戦を立てたのは⑥ニコールでした。そして、3人は、回天」「高雄」「蟠竜」に乗り込み宮古湾海戦を戦っています。

旧幕府軍のために戦った10人のフランス人たちは、五稜郭が陥落する直前にフランス艦「コエトゴロシ」で箱館から脱出しました。

 ブリュネはその後フランスに帰り、取り調べを受けました、「寛大な処置が」がとられ、罪に問われることはなく、しばらくして、軍に復帰し、普仏戦争で参加等で活躍し、その後、順調に出世しました。



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# by wheatbaku | 2017-11-06 14:39 | 『幕末』 | Trackback
江戸検の応援に行ってきました

江戸検の応援に行ってきました

昨日、江戸文化歴史検定が行われました。

受検されたみなさん、本当にお疲れ様でした。

私が主宰している「獏塾」からも、大勢の塾生が江戸検1級を受検しますので、既に合格している人たちと一緒に応援してきました。

会場入り口で昨年も応援しましたが、その際に、受検した人たちから、「試験直前の応援で元気をもらった」というお礼の声をいただきました。

そこで、今年は昨年を上回る8人で、横断幕も2枚にふやし10時から明治大学の会場入り口で応援させてもらいました。(下写真は応援終了後の集合写真です)

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会場に入場する際に声掛けや握手で応援をしましたが、元気よく応えてくれる人、緊張した顔で応えてくれる人、恥ずかしそうに応えてくれる人、人それぞれの反応でしたが、一様にうれしそうでしたので、応援に行ってよかったなと思いました。

また、会場入り口で、横断幕をもって応援する姿は、みんなの注目をひくのか、写真を撮ってくれる人もかなり大勢いました。

お蔭様で、江戸検の盛り上げにも貢献したようにも思います。
 この応援に参加された皆さんお疲れ様でした、そして、ありがとうございました。

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昨夜は、受検した人たちから、自己採点の結果の連絡があり、塾生の中から大勢の人が合格点を越えたようです。

合格されたみなさんおめでとうございます。

 合格された皆さんのこの間の頑張りは尋常ではありませんでしたが、その頑張りの賜物だと思います。心からお祝い申し上げます。

 また、残念な結果であったという連絡もありましたが、その人たちも一生懸命頑張っていました。
 しばらく休息されてから、ぜひ捲土重来を期していただきたいと思います。






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# by wheatbaku | 2017-11-04 09:41 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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