池田屋事件

 今日は、有名な「池田屋事件」について書きます。

 池田屋事件は有名なわりには、インターネットには、詳しく書かれたものが少なくて、少し驚きました。そこで、池田屋事件について少し詳しく書いてみます。

池田屋事件は、新選組の名前を一気に高めた事件であるとともに新選組が最も華々しく輝いた事件でもあったと思います。また、この事件に憤激した長州藩兵が上京し禁門の変が起きていることから政治史の上でも非常に重要な事件です。

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 まず、事件の起きた「池田屋」は、三条小橋の西側にあります。 三条小橋は、三条大橋の西側にあり高瀬川に架かる橋です。

その三条小橋から20~30メートル程西に行った所に「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。

 これが池田屋の跡です。ちなみに、池田屋事件は池田屋騒動とも呼ばれます。

池田屋は、当時、旅籠をやっていました。長州藩の定宿だったという説もあります。

 『血録 新選組』によれば、高瀬川から西に向かって通りの北側に「亀屋」「中屋」があり、次いで「池田屋」がありました。さらに南側にも旅籠が並んでいて、池田屋の間口は3件半(6.9m)という入口の狭い旅籠でした。

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 現在は、石碑がある場所で居酒屋チェーン「はなの舞」が「池田屋 はなの舞」という名前で商売をしています。右写真をご覧ください。

 2月末から3月にかけての京都旅行で、「はなの舞」に入りランチ「土方歳三」を食べてきました。

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 料理は、「はなの舞」のどの店舗にでもあるごく普通のメニューでした。
 しかし、店内の装飾は、やはり池田屋事件を意識したものでした。(右下写真)

 

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 この池田屋で、元治元年65日に新撰組が尊皇攘夷派の浪士を襲撃した事件が『池田屋事件」です。

 文久3年8月、会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変により、尊王攘夷派の公卿や長州藩は失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていました。

 尊王攘夷派は勢力挽回の機会をうかがっていました。これを阻止すべく新撰組は市中警戒を強めていていました。

月5日、新撰組は、四条小橋西側で薪炭商を営む枡屋に踏み込み、主人喜右衛門を逮捕します。

 喜右衛門の本名は古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)といいました。

古高俊太郎は、近江国栗太郡古高村で生まれ、枡屋を営む湯浅喜右衛門の養子となり、枡屋(湯浅)喜右衛門を継承しました。

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 四条通りの一本北側の小路に、古高俊太郎寓居之跡の碑がありました。これが枡屋のあった場所です。

「しる幸」というお店の玄関脇にありました。(左写真)

 そして、壬生の屯所に連行し、厳しく追及しました。しかし、名前が「古高俊太郎」とだけ白状しました。

 しかし、それ以外は口をわりませんでした。そこで、土方歳三が拷問により古高を自白させました。

 土方歳三が行なった厳しい拷問は、古高俊太郎を縛り上げ梁に逆さに吊るし足の裏に五寸釘を打ち込み、火をつけた百目蝋燭から蝋を流すという拷問だったと永倉新八の「新選組始末記」にかかれています。

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 新選組が古高俊太郎を拷問したのは前川邸の土蔵といわれていて、その土蔵は現存しています。(右写真)

 古高俊太郎の自供した内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というものでした。

 驚いた近藤勇は、すぐに京都守護職、会津藩、京都所司代に連絡し、協議しました。

 その結果、新撰組と諸藩兵士で協同で探索をすることになり、八坂神社前の祇園会所で落ち合うことにしました。

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 会所というのは町役人の詰め所で、祇園会所は、八坂神社の石段下で現在の東大路と四条通りがT字形に交差している三叉路の南西部にありました。(右写真)

 決められた時刻になっても、会津藩は来ませんでした。

 この時期、新撰組の隊員の減少が続き、全員で40名程度だったといわれています。

 このうち池田屋事件に参加した隊員は34名であり、祇園会所にも34名が動員されたものと思われます。

 この人数では、市中探索を行うには、十分とはいえませんでしたが、事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切りました。

 近藤隊と土方隊の二手に分け、土方隊は24名で鴨川東側を北上しつつ縄手通を探索することにし、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助ら9名を率いて10名で鴨川西側の木屋町通りを北上しつつ捜索を開始しました。(『図解雑学新選組』(菊地明編)による)

 近藤隊は、木屋町通りを探索しつつ北上していきました。そして、午後10時半ごろに、池田屋にいたり、池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見しました。

 

 池田屋で尊王攘夷派の志士たちが会合しているのに気がついたキッカケについては、いろいろな本にさまざまに書かれています。事前に情報があったとか、池田屋に長州藩の紋がある提灯が下げられていたからとか、夜遅い時間に灯りがもれていたからとか書かれています。

 近藤は、玄関先と裏側に数人づつ配置し、池田屋には、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助らと踏み込みました。

池田屋に踏み込んだところ、池田屋の主人が2階に向かう階段付近で、2階にあわてて大声をかけました。

 近藤勇と沖田総司が、2階に駆け上がると、20数名の尊攘派志士がいたそうです。

 近藤たちと志士たちとの間で激しい戦いが始まりました。

 戦いの途中で、沖田総司は、結核のため戦えなくなり、戦線を離脱します。また藤堂平助も負傷しますが、新撰組は戦い続けます。

 戦っている途中、土方隊も到着し、戦いに参加し、新撰組は一気に優位にたちます。

 さらに、出動の遅れた会津藩の軍勢も到着し、周辺をかためました。

 2時間にわたる戦いにより、大勢の尊王攘夷の志士たちが殺されたり逮捕されました。

 正確な数はわかりませんが、近藤勇が養父近藤周斎にあてた手紙では、死者7名、負傷者4名、逮捕者23名と書かれています。

 死者の中には、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐の北添佶麿(きたぞえよしまろ)・望月亀弥太らがいて、この事件により、倒幕が一年遅れたといわれるほどの大きな影響を与えました。

 この戦いに勝った、新撰組は、幕府から多くの恩賞が与えられました。

全員に一律十両が与えられさらに別段金が与えられ、別段金に差がありました。近藤勇には別段金20両、土方歳三は別段金13両でした。

また、新選組は一躍全国にその名を知られようになりました。



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# by wheatbaku | 2017-03-29 11:05 | Trackback
「輪違屋糸里」読了しました(「幕末」)

浅田次郎さんの「輪違屋糸里」を読了しましたので、今日はこの本の紹介をします。

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「輪違屋糸里」ってどっかで聞いたと思う人は、前回の「芹沢鴨の暗殺」をよく読んでいただいた方だと思います。

そうです。芹沢鴨が八木源之丞邸で暗殺された時に、平間重助と一緒に寝ていた女性です。

 「輪違屋糸里」は芹沢鴨の暗殺を題材とした時代小説です。

この小説に登場する主な人物を紹介します。

芹沢鴨の暗殺が題材ですので、襲撃される側の芹沢鴨、平山五郎、平間重助、そして襲撃する側の近藤勇、土方歳三、沖田総司は当然登場します。

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しかし、この人たち以上に重要な登場人物が女性たちです。つまり、女性の側からみた「芹沢鴨暗殺事件」という内容です。

登場する女性たちとは主に次の人たちですが、歴史書の中ではあまり出てこない人たちのですので、詳しく紹介しておきます。  

【糸里】 島原の置屋輪違屋の芸妓 

芹沢鴨の暗殺の際に、八木源之丞邸で平間重助と寝ていた女性。


ちなみに、島原の輪違屋は現存していて、先日の京都旅行の際に見物してきました。
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  京の島原は、江戸の吉原と異なり花街だそうです。そのため色を売ることはなかったそうです。輪違屋は置屋です。置屋は芸妓を抱えていて、現在の料亭である揚屋に芸妓を派遣していたそうです。

輪違屋は元禄時代の創業の店で、安政4年に再建された建物は京都市指定文化財となっています。

「輪違屋糸里」⇒ 土方歳三に思いを寄せている。土方歳三も愛しているが、芹沢鴨の強要により、平間重助に身を任せる。芹沢鴨の暗殺の際には、しびれ薬をいれるという重要役割を果たす。

【吉栄】 島原の置屋桔梗屋の芸妓 

芹沢鴨の暗殺の際に、八木源之丞邸で平山五郎と寝ていた女性。

「輪違屋糸里」⇒ 平山五郎の愛人。平山五郎の子供を宿し、身請けされることも願うが、それが無理をわかり、太夫になるため、平山五郎を裏切ることを決断する。

【お梅】  西陣の太物問屋菱屋の妾、芹沢鴨の愛人

「輪違屋糸里」⇒ 菱屋の妾であるが、女房を追い出し、倒産しかけた菱屋の立て直しに奔走する。掛金回収に行った際に芹沢鴨に手込めにされ、それ以降、八木源之丞邸で逢引をしている。お梅を裏切った主人太兵衛を殺害した後、頼れる芹沢鴨とともに覚悟のうえで殺害される。

【おまさ】 壬生の八木源之丞の妻 

【お勝】 「輪違屋糸里」では、新選組屯所前川荘二の妻として登場するが、これは浅田次郎さんの創作上の女性かもしれません。

小説は、輪違屋の音羽太夫を芹沢鴨が無礼討ちする場面から始まります。(この音羽太夫の無礼討ちは創作だと思います。)しかし、芹沢鴨は不思議にもお咎めがありませんでした。

その後、芹沢鴨は大和屋を焼討します。

御所近くの大和屋が燃え、京は騒然となり。京都守護職の松平容保が直々には現場に駆けつけ怒りを露にします。

その数日後、近藤勇、土方歳三たち試衛館の人々が松平容保に密かに呼ばれます。

その直後に起きた八月十八日の政変では、新選組にも出動しましたが、この時采配を振ったのは侍出身の芹沢鴨で、百姓あがりの近藤勇や土方歳三はその指示に従うだけでした。

ここに、浅田次郎さんは、芹沢たち侍出身者と近藤たち百姓出身者の違いを描こうとしていたようです。

8月18日の政変後、土方歳三は、芹沢鴨の要求に屈し、愛する糸里を平間重助に譲ります。

その後、土方は輪違屋糸里と桔梗屋吉栄を説得し、芹沢鴨暗殺に協力を求めます。それに対して、糸里は、土方歳三を愛することから、吉栄は、平山の身請けが困難なことから会津藩の援助で太夫への昇格させてもらうことを交換条件に土方に協力することを承諾します。

 9月18日、新選組は隊内融和のため、角屋で宴会を行い、それが終わった後、八木家で、芹沢、平山、平間、近藤、土方が飲み直し、糸里は、芹沢、平山の盃に痺れ薬が入ったお酒をそそぎます。そして、6人が寝入った頃、土方たちが襲い、芹沢平山が殺害されます。

 以上が、大まかなストーリーですが、感じたことなどを書いていきます。

1、この小説では、登場人物が一人称で身の上や考え方を語る部分があります。

 この部分を読むと、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三など強面の印象のある人々が人間味あふれる人物として描かれています。

 芹沢鴨などはとても乱暴者には思えません。

2、この小説では、芹沢鴨暗殺を命じたのは、大和屋焼討事件に怒った京都守護職松平容保とされています。

 しかし、大和屋焼討事件は、交替で帰国するはずだった会津藩兵を引き返しさせるために、会津藩重役の指示で芹沢鴨が起した事件だとされています。

 つまり、芹沢鴨を動かしていた人が別にいるという筋立てです。

 このことが、芹沢を悪人役にさせずにすむ理由のように思います。

3、また、芹沢鴨の暗殺の段取りを細かく決めたのは土方歳三です。

 土方は、八木家での襲撃の準備は当然のことながら、土方を愛する糸里や平山を愛する吉栄も暗殺に協力させるための説得を自ら行います。

 まさに土方歳三が芹沢鴨暗殺の張本人というストーリーとなっていて、芹沢鴨暗殺に至る汚れ役は土方歳三です。

しかし、土方がその汚れ役に徹して細かな段取りまでなぜ行ったかというのは最終盤にわかります。ここも注目して読んでいくとよいと思います。

4、この小説のクライマックスは、芹沢鴨の暗殺が終わった後の土方と糸里のやりとりでしょう。

暗殺直後、土方は糸里と吉栄を、口封じのため、殺害しようとします。
 その時、糸里は厳然として土方に立ちふさがり厳しい口調で啖呵をきります。これにより、土方は二人の殺害を断念します。
 この時の啖呵は、小説を読んでいただいて確認していただきたいと思いますが、糸里の啖呵で触れていることも、浅田さんが、この小説で書きたかったことだと思います。

5、最も感動的だったのが、エンディングの3つの章です。

①事件の数日後、糸里は、近藤たちと一緒に松平容保から召し出されます。

この時に、一同が平伏する中で容保に糸里は「人を生かすことが御政道である」と堂々と申し述べます。

②次いで、愛する土方と結ばれることを断念した糸里が容保に名付けてもらった「桜木大夫」として初道中を行います。角屋で桜木大夫をまっていたのは一橋慶喜と松平容保でした。これも感動的でした。

③最後の最後の章では、糸里の故郷若狭国小浜で吉栄は女の子を出産します。

その子の名前には恩人糸里の名前「いと」とつけた吉栄は、安穏な生活をすて「いと」を育てあげる道を選ぶところで終わります。

この吉栄の思い出のなかに、吉栄が小浜に向かう際に、近藤勇が、京都の町はずれまで見送り、頭を下げる場面があります。近藤勇が好人物ととして描かれている場面の一つです。

最後まで読み終わって、この小説の主人公は、芹沢でもなく、近藤でもなく、土方でもなく、まさに題名の通り「輪違屋糸里」だとわかりました。

浅田次郎さんの小説は初めて読みましたが、浅田次郎さんの構想力・創作力・筆力のすごさに感動しました。

 幕末が苦手な人、新選組が嫌いな人、闘う場面が嫌いな人、いずれにもお勧めできる素晴らしい小説だと思います。
 読み始めたら必ず最後までお読みください。最後がすばらしいと思います。





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# by wheatbaku | 2017-03-27 11:24 | 『幕末』 | Trackback
芹沢鴨の暗殺(幕末)

今日は、新選組の2回目で、芹沢鴨の暗殺について書いてみます。

芹沢鴨は、清河八郎が江戸に戻ると言い出した時に、近藤勇とともに京に残留することを主張し、そのまま京に残りました。

芹沢鴨は、常陸国行方郡芹沢村の出身で、本名木村継次(つぐじ)とされています。

神道無念流を学び、水戸出身の新見錦(にいみにしき)、平山五郎、平間重助、野口健司とともに上洛しました。なお、芹沢鴨は水戸の天狗(てんぐ)党に属していわれていますが、それを裏つける明確な資料はないそうです。

京に残留した浪士組は、会津藩預かりとなり、「壬生浪士組」と呼ばれました。

芹沢鴨は、近藤勇、新見錦とともに壬生浪士組の局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となりました。(なお、新見錦は当初局長だったがのちに副長となったと書いてあるものもあります」、

この芹沢鴨は大変な乱暴者で、いろいろなところでトラブルを起こしました。

文久3年6月、芹沢・近藤ら10人が大坂へ下った際に、相撲力士と喧嘩し力士側に死傷者が出ました。

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同じ6月、水口藩の公用方とトラブルを起こし、その仲直りの宴席が島原角屋で開かれて際に芹沢は大暴れをして酒樽の飲み口をたたき落とし、台所に山のように積んである瀬戸物を粉微塵した挙げ句、角屋を7日間営業停止にしたと新選組隊士永倉新八の書いた『新選組始末記』に書いてあります。


さらに、8月13日、芹沢は借金を断られた腹いせに、隊士を連れて、葭屋町一条の生糸屋大和屋庄兵衛宅に押しかけ焼き討ちしました。この時には 駆けつけた所司代の火消も手が出せなかったそうです。

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こうしたことから、「いつしか会津藩からの芹沢召し捕り命令は、暗殺命令に切り替えられた」(『新選組全史』(中村彰彦著)と言われています。


9月18日、新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開きました。

『新選組全史』(中村彰彦著)には、この時の費用は会津藩が負担し、会津藩が芹沢暗殺に協力して取った措置だろうと書いてあります。

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この時に宴会を開いたのが、角屋で最も広い43畳敷きの「松の間」だったそうです。


角屋「松の間」は特別公開で見てきました。
 写真も自由にとってよいとのことでたくさん撮らせてもらいました。

「松の間」」を彩っていた襖絵は『金地桐に鳳凰図』と呼ばれる幕末頃の絵師岸連山の絵でした。(右上写真)

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 右写真は、床の間の部屋です。

 芹沢鴨は、床の間の前辺りで酒を飲んでいたのではないかという説明がありました。

ちなみに近藤勇は酒は飲めず甘いものが好きでしたという補足説明がありました。



ここで酒を飲んだあと、芹沢鴨は平山五郎、平間重助と角屋を出て壬生の八木源之丞家へ戻り、八木家で再度宴会を催しました。

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(右写真は、八木家の入口です。)

その席に芹沢鴨の愛妾のお梅、平山の馴染みの桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里も一緒に酒の席に加わりました。

先日訪れた際の八木家での説明によれば、その席には、土方歳三も同席しており、土方歳三は、芹沢を酔わせるように、盛んに酒を進めたという説明がありました。

なぜ、それほどまで、酒を呑ませたかというと、芹沢鴨は、神道無念流の剣客で、酒が入っていなければ、近藤勇や土方歳三でも斬るのが難しかったためだそうです。

宴席が終るとすっかり泥酔した芹沢らは女たちと一緒に布団に入りました。

 一番奥の10畳の部屋に、芹沢はお梅と一緒に寝て、屏風を間に挟んで、平山五郎は吉栄とともに寝ました。
 平間重助と糸里は別の部屋で寝ました。

 八木家の邸内は撮影禁止ですので、八木家の間取り図は、八木家のホームページの中の「(新選組発祥の地) 壬生屯所旧跡」

 http://www.mibu-yagike.jp/04tonsho_main.html#1  をご覧ください。

 泥酔した芹沢たちを、深夜、男たちが襲いました。

襲われた芹沢は、縁側伝いに隣の部屋まで逃げ、その逃げ込んだ部屋に置かれていた文机につまずき、よろめいたところを斬られたといわれています。

逃げ込んだ部屋の鴨居には、「芹沢暗殺時の刀傷」といわれるものが現在でも残っています。

また、芹沢がつまずいた文机も、そのまま残されています。

(撮影禁止なので写真は撮れませんでした)

芹沢と同衾していたお梅も殺害されました。平山も殺害され、吉栄と、別室にいた平間と糸里は逃亡し行方知らずとなったそうです。

この芹沢暗殺を実行したのは、土方歳三や沖田総司、そしてその他の近藤グループ(本によりそのメンバーは微妙に異なります)であることは、その当時から現在まで全く疑われていないそうです。

 八木源之丞の息子八木八木為三郎の証言によると、当時13歳だった為三郎とその弟は既に眠っており、父は不在、現場を見たのは母だけだったそうです。

 そして為三郎が母から聞かされた話を65年後に子母潭寛に語っています。その殺害の様子は次のようだったと岩波新書『新選組』(松浦玲著)に書いてあります。

泥酔した芹沢が女(お梅)と共に寝込んでしまったのを見届けに来た男の姿は土方歳三に似ており、次いで斬りに来た数人のうちに沖田総司と原田佐之助かいたのは間違いなく、山南敬介もいたんじゃあないかという。逃げながら何度も斬られた芹沢の身体が眠っている兄弟の上に倒れかかったのに眼を覚まさなかったので「いくら子供でも余りひどいものだ」と母が怨じた。弟の勇之助は倒れた芹沢を斬る刀で右足を疵つけられたという。

 為三郎が眼を覚ましたときには平間重助か一人で刀を持って家の中を走り歩いていた。

芹沢の女が湯文字一枚の揉で死んでいるのと平山五郎の首が胴から離れているのは為三郎も見届けた。子供らが母と共に親戚の家へ移る直前に、急報を受けたという体で近藤や土方が現われて、いろいろ問いただす。母は怖いながらもおかしくて仕方がなかったのだが、ずっと後まで殺ったのが土方一味だということを口外しなかった。

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 実際に暗殺の現場に遭遇した人の証言は迫力があります。

 また、現場を見た後でしたので、この話がよりよく理解できました。

 芹沢暗殺は長州藩士の仕業とされ、9月20日に芹沢と平山の葬儀が盛大に執り行われました。

芹沢の墓は京都の壬生寺の壬生塚にありますが、その当時は壬生村の共同墓地に埋葬され、のちに壬生塚に改葬されたのだと光縁寺の御住職は仰っていました。




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# by wheatbaku | 2017-03-24 10:50 | 『幕末』 | Trackback
浪士組結成(「幕末」)
 今日から、新選組について書いていきます。

 新選組を語るには、その前身である浪士組を語る必要がありますので、最初に浪士組について書いていきます。
 (右下写真は、浪士組が集合・出発した小石川伝通院です)

 浪士組は、庄内藩郷士清河八郎の建言に基づいて幕府により結成されました。

c0187004_10090006.jpg 清河八郎は、本名斎藤正明といいます。清河という姓は出羽国田川郡清川に生まれたことによるものだそうです。

18歳で江戸に出て,東条一堂,安積艮斎に師事し、昌平黌でも学び,剣を千葉周作に学びました。

その後、神田に塾を開き,文武二道を指南しながら、山岡鉄舟や伊牟田尚平,益光休之助らと「虎尾の会」を結成し,尊王攘夷を画策.実施しました。

『新選組全史』(中村彰彦著)によれば、赤羽橋でアメリカ公使館の通訳のヒュースケンを斬ったのは伊牟田尚平や清河八郎たちだと書いてあります。

こうした活動の中で、殺人事件を起して、幕吏に追われれる身となったため、逃亡と遊説をかねて,東北から九州へ旅をしたこともあります。

攘夷運動が高まるなかで、清河八郎は、文久2年(1862)、幕府に浪士組編成と尊攘派の大赦とを建言しました。
 尊攘派の大赦とは殺人を犯した清河八郎自身の大赦がねらいだったようです。

この清河の建言を入れて浪士組が結成されることになりました。

その取扱には、当初、松平忠輝の子孫で講武所の剣術教授方の松平忠敏が命じられました。

c0187004_10115216.jpgそして、募集の知らせが出され、これに応募した浪士たちは、文久3年2月5日に伝通院処静院(右写真)に集合を命じられましたが、この時には200名を超える浪士が集まったといいます。この際には取扱は鵜殿鳩翁に変っていました。

幕府は当初50人程度を予定していて一人50両を当てるとしていたようですが、予想外の浪士が集まったため支給額が10両に減額されたと言われています。

この浪士組結成の報を聞いて応募した浪士の中に、のちに新選組を結成する近藤勇グループと芹沢鴨グループがいました。

浪士組は、文久3年2月8日江戸を出発しました。浪士世話役に山岡鉄舟も命じられ、浪士組に同行しています。

この上洛途上、近藤グループと芹沢グループがどこに所属していたか、書いておきます。

中公新書「新選組」(大石学著)と「図解雑学新選組」によれば、次のようになっています。
 3番組新見錦(小頭:芹沢グループ)井上源三郎 (近藤グループ)

6番組近藤勇(小頭)土方歳三、山南敬介、沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助(以上近藤グループ)、平山五郎、平間重助、野口健司(芹沢グループ)

c0187004_17044469.jpg浪士組は、中山道を利用し京都に2月23日に到着しました。京都に到着すると、浪士組の面々は壬生村に分宿しました。

『新選組全史』(中村彰彦著)によれば、鵜殿鳩翁、山岡鉄舟は前川邸(右写真)、清河八郎は新徳寺、近藤グループと芹沢グループは八木邸(右最下段)に宿泊することになりました。

c0187004_17044907.jpg 到着したその日に、清河八郎は、浪士組のメンバーを新徳寺(右写真)に集合させ、その真意を白状します。

清河八郎は、浪士組を結成し上洛したのは、尊王攘夷の建白書を御所に提出することだと宣言し、翌日、御所に建白書を提出しました。

これに対して、京に残留して将軍を警護すると主張したのが、近藤グループと芹沢グループです。
 中公新書「新選組」では、清河八郎の考えが、朝廷と幕府が離反した場合には朝廷につく尊王攘夷論であったのに対して、近藤の主張は、幕府の権力強化をもとに朝廷と幕府が一体となって政局を安定される公武合体論であったと書いてあります。

c0187004_17045395.jpg 清河八郎は、攘夷のための江戸帰還を主張しますが、
このとき、清河八郎に反対し京に残った近藤グループ8名(近藤 勇・土方歳三・沖田総司・井上源三郎・永倉新八・山南敬助・原田佐之助・藤堂平助)と芹沢グループ5名(芹沢鴨・平間重助・新見 錦・野口健司・平山五郎)の13名が後に新選組の中核となります。

浪士組は3月13日に江戸に戻ることとなり、近藤グループと芹沢グループ、さらにその後、残留を決めた人を含めて合計で24名が京に残ることになりました。

残った人たちは3月15日に会津藩預りとなることが決まり、この人たちが新選組(新選組と名のるのはしばらく後になりますが)となります。

これ以降は次回書きます。



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# by wheatbaku | 2017-03-22 10:05 | 『幕末』 | Trackback
獏塾「幕末維新横浜散歩」開催されました。

昨日は、獏塾の「幕末維新横浜散歩」が行なわれ、塾生の皆さんと早春の横浜を散歩してきました。

今回の案内人は、横浜在住の浜之悪代官(本名:浜之無学)さんです。

c0187004_17352750.jpg浜之悪代官さんは、横浜市開港記念館でボラティアガイドをやっているので、横浜の幕末史には詳しいです。

 江戸検の今年のお題が「幕末維新」ということで、今回の散歩が実施されました。ちなみに浜之悪代官さん、昨年江戸検1級に合格されています。

今回は京品急行神奈川駅13時に集合して次のように散歩しました。
①本覚寺 ⇒【電車で移動し関内駅へ】 ⇒ ②吉田橋関門跡 ⇒ ③馬車道(近代街路樹発祥之碑・アイスクリーム発祥碑・日本最初のガス灯碑・下岡蓮杖顕彰碑・神奈川県立歴史博物館) ⇒ ④中居屋重兵衛店跡碑 ⇒ ⑤開港記念会館 ⇒ ⑥神奈川県庁(神奈川奉行所跡碑・神奈川運上所跡碑) ⇒ ⑦日本大通(居留地の防火帯・ラッキースポットで合格祈願) ⇒ ⑧開港資料館 ⑨横浜公園(港崎遊郭=みよざきゆうかく)⇒ ⑩横浜製鉄所跡(JR石川町駅側)⇒ ⑪日本における新聞発祥の地(ジョセフ・彦の顕彰碑)


それでは主な案内場所をご紹介します。

〔本覚寺〕

c0187004_17353208.jpg本覚寺は、アメリカ公使ハリスは江戸の元麻布・善福寺の公使館に入りましたが、、新たに神奈川領事として任命されたドールは、神奈川宿の本覚寺を領事館とするよう認めさせました。

幕府は宿場町である神奈川に外国人を住まわせることで攘夷派とのトラブルが発生することを怖れ、横浜に領事館をつくるよう各国に勧めましたが、当時、東海道から遠く離れた交通不便な横浜ではなく、神奈川に領事館を開きました。

しかしその後、横浜が急速に発展し、やがて各国の領事館も横浜に移転していきました。本覚寺につくられたアメリカ領事館も3年ほどで閉鎖されました。

文久2年(1862年)8月に起こった生麦事件では、薩摩藩士に襲われた4名のうち、マーシャルとクラークが、この本覚寺アメリカ領事館に逃げ込み、医師のヘボンに治療を受けています。

〔岩瀬忠震の碑〕

c0187004_17353805.jpg本覚寺の山門脇には岩瀬忠震の碑があります。

ハリスとの日米修好通商条約交渉にあたって、下田奉行井上清直とともに全権として交渉し、最終的には、勅許を得ずして、条約に調印しました。

これにより神奈川が開港することになりました。そうした縁で、本覚寺に岩瀬忠震の碑が設置されているようです。

関内駅に移動し、馬車道を歩くと、さまざまな碑がありました。

主なものを浜之無学さんの資料をもとに順にご紹介します。


[アイスクリーム発祥碑]

c0187004_17370557.jpg 明治2年、元旗本 町田 房造 が馬車道に氷水店を出し「あいすくりん」と名づけて売出したのがアイスクリームの初めだそうです。

その説明板は太陽の母子像(右写真)の脇に貼られていますので見落とさないように注意が必要です。


[日本最初の 日本最初の ガス灯碑 ]

c0187004_17360072.jpg横浜のガス灯は 、明治 5年に, 高島嘉右衛門の日本ガス社中により、馬車道・本町通り等に 設置点灯され 、これが日本にお ける最初のガス灯となったそうです。柱部は英国グラゴー市から輸入したものだそうです。

現在もガス灯は本物のガスにより点灯しているそうです。


[下岡蓮杖顕彰碑 ]

c0187004_17360714.jpg現在は上野彦馬が日本人最初の写真師といわれているそうですが、下岡蓮杖(しもおかれんじょう)も、 文久 2年( 1862)に横浜写真館を開業しまし た。それを顕彰した記念碑です。
 写真の正面の金属性の三角形のモニュメントが顕彰碑です。


〔中居屋重兵衛店跡〕

c0187004_17361486.jpg 馬車道と直角に交わる本町通りになると中居屋重兵衛の店跡がありました。

中居屋重兵衛は上野国吾妻郡中居村(現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原)の名主黒岩幸右衛門の子として生まれました。

中居屋は屋号で、開港直後の横浜でもっとも多くの生糸を輸出し栄えましたが、万延元年1 月(1860 年)に幕府から営業停止命令を受け、わずか2 年ほどで没落した謎の多い人物として知られています。

〔神奈川県立博物館〕

c0187004_17361483.jpg 神奈川県立博物館は、元は横浜正金銀行本店でした。

 この建物は、明治 37 年に建てられたものです。この設計者は妻木頼黄(つまきよりなか)です。

妻木頼黄は、明治建築界の三大巨匠に数えられる人物です。三大巨匠とは、妻木頼黄のほか、東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾、迎賓館を設計した片山東熊です。妻木頼黄は、日本橋の意匠設計をしたことで知られていますが、辰野金吾と片山東熊に比べると知名度が低いのは、妻木頼黄が設計したもので東京に残されているものが日本橋以外にないせいもあるかもしれません。

数少ない妻木頼黄の設計した建物を実見できて有意義でした。

この由緒ある建物の階段で、参加者全員の集合写真を撮りました。(写真は最下段に載せました)

〔横浜開港記念会館〕

c0187004_17362349.jpg横浜開港記念会館は明治42年の横浜港開港50 周年記念事業として、大正6 年に完成しましたが、関東大震災時に全焼し、昭和2 年に初期の建築を復元した状態で再建されました。国の重要文化財に指定されています。

現在も横浜市中区公会堂として利用されているようで、入場は無料でした。

c0187004_17361857.jpgここは、案内人の浜之悪代官さんのホームグランドなので、丁寧に説明をしていただきました。

右写真は、2階ロビーにある咸臨丸の絵の前での説明です。

勝海舟などにより遣米使節に随伴して太平洋を航海した話のほか、咸臨丸はオランダから購入したもので、帆のほかに蒸気機関を動力源とするスクリューで動いたことなどの説明がありました。

〔神奈川県庁〕

c0187004_17362789.jpg神奈川県庁は、もともとは神奈川奉行所があった跡です。

神奈川奉行は、横浜港が開港された安政6 年(1859)に設置された役職で、外国奉行の兼帯でした。

それが、万延元年(1860年)に神奈川奉行は専任となりました。

慶応4 年、明治政府は神奈川奉行所を廃止して新たに横浜裁判所を置き、横浜裁判所がさらに神奈川裁判所、神奈川府となり、現在の神奈川県にと名称変更されたそうです。

〔開港資料館〕

c0187004_17425420.jpg開港資料館は元英国領事館を利用して開館したそうです。

入口には、薩英戦争で亡くなった人たちの名前が刻まれた銅版がありました。

中庭に植えられているタマクスの木はペリー来航時の記録画にも描かれているという由緒ある木のようです。

資料室にはポーハタン号などの模型も展示されているそうですが、時間がなくてパスしましたので、またの機会にはゆっくりみたいと思っています。

散歩の後は、中華街で飲み放題食べ放題の中華料理で打ち上げました。

散歩も満足でしたが、こちも満足でした。

ご案内いただいた浜之悪代官(本名:浜之無学)さんありがとうございました。
 楽しくて勉強になる横浜散歩でした。

ご一緒した獏塾の皆さん、ありがとうございました。
 最後に散歩に参加された皆さんの集合写真を掲載しておきます。

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# by wheatbaku | 2017-03-20 17:02 | Trackback
新撰組ゆかりの地(「幕末」)

新撰組ゆかりの地を行く

先日の京都旅行では、テーマをいくつか考えて、そのテーマゆかりの地を巡ってきました。

そのテーマは、「新選組」「禁門の変」「薩長同盟」「鳥羽伏見の戦い」など幕末に関係するものです。

そこで、これから、テーマにそって、書いていきますが、最初に新選組について書いていきます。

 今日は、まず、先日巡ってきた「新選組ゆかりの地」を一挙に紹介していきます。

 新選組といえば、「壬生」ということになりますが、京都駅から地下鉄と近鉄を乗りついて四条大宮まで行き、そこから歩いていきました。

1、光縁寺

c0187004_20525738.jpg 光縁寺は、四条大宮駅から壬生へ行く途中にありますが、四条大宮駅から南に下り一本道の道を西に歩いていくと北側をにあります。

 光縁寺には、山南敬介ほかのお墓があります。

c0187004_20530313.jpg しかし、このお寺は観光客は入寺お断りとなっていて、山南さんのお墓参りの人だけ入寺可能と門前に書かれています。

 「山南敬介さんのお墓参りさせてください」とお願いしたら、御住職は快く許可してくださいました。お話が好きなきさくな御住職でした。

 山南敬介は新撰組の総長でしたが、逃亡を図ったものの見つかり、切腹して果てました。

2、旧前川邸

c0187004_20515018.jpg こちらは旧前川邸の長屋門です。

 新選組の屯所として使用されました。

 壬生の前川家の本家は、六角の前川家で、前川家はもともとは糸割賦人として財力を蓄えた家系だったそうです。

c0187004_20515289.jpg この旧前川邸は、現在は株式会社田野製袋所となっていて、住居兼工場として利用されています。

 そのため、平日は公開されておらず、土日祝日のみ新選組グッズの販売がされています。

3、八木邸

c0187004_20515829.jpg こちらは八木邸です。

 新選組の屯所として使用されました。

 八木邸で、芹沢鴨が暗殺され、その座敷も残されていて、ガイドによる案内も行われています。

c0187004_20520622.jpg 芹沢鴨襲撃時に鴨居についた刀傷や芹沢鴨が逃れようとした際につまづいた文机も見ることができます。

 八木家は、壬生村に住む郷士でしたが、現在の八木家は、八木邸の前で「御菓子司 京都鶴屋」を経営しています。

c0187004_20545468.jpg 八木邸の見学は、入り口脇にある鶴寿庵」での屯所餅と抹茶セット付きで100円です。

 右写真がが屯所餅と抹茶セットです。

 八木家見学の後にいただきました。

 屯所餅には、壬生菜が刻みこんでありましたが、餅にマッチしていて美味しかったですね。

4、新徳寺

c0187004_20512414.jpg こちらは新徳寺です。

 浪士組は、清河八郎の建言により結成されたものですが、浪士組が京都に到着した際に、清河八郎の宿舎にあてられました。

 清河八郎が、到着した日に本当の狙いは尊王攘夷であるという大演説を行ったお寺です。

5、壬生寺

c0187004_20521558.jpg こちらが壬生寺です。

 壬生寺は平安時代の正暦2年(991)に創建された古刹で、壬生狂言で有名なお寺です。

 新選組は、ここで武芸の訓練等を行ったそうです。

c0187004_20521877.jpg 壬生寺の境内には、壬生塚があります。

 本堂に向かって右手に阿弥陀堂がありますが、その東側が壬生塚となっています。

 壬生塚には、近藤勇の胸像( 写真)や遺髪塔のほか、芹沢鴨・平山五郎の墓、野口武司たちお墓などがあります。

 ただし、この壬生塚に入るには200円の入場料がかかりますので、阿弥陀堂の中で払ってはいります。

c0187004_20525224.jpg こちらが芹沢鴨・平山五郎のお墓です。

 芹沢鴨・平山五郎が 八木邸で暗殺された翌日、盛大な葬儀が行われた後、壬生寺前にあった壬生村の共同墓地に埋葬され、その後。壬生寺境内に改葬されたものだそうです。









6、島原 角屋

c0187004_20571235.jpg 島原の「角屋」はすでに紹介した通りです。

 新選組でもしばしば使用しました。

文久3年6月には、近江水口藩と新選組との関係が悪化した際に、水口藩が新選組を招待して宴席を開きました」。

c0187004_20572959.jpgこの際に、酔っ払って暴れ出した芹沢鴨が、酒樽の栓を次々に叩き落とし、一面を酒びたしにするという狼藉を犯したりしています。

 こちら、既に紹介した角屋の松の間です。

c0187004_20573439.jpg 芹沢鴨が暗殺された日には、下段の松の間で新選組隊士を集めた大宴会が開かれました。

 芹沢鴨は、左手奥の床の間あたりに座って酒を呑んでいたのでしょうと説明がありました。

 角屋の玄関脇には、新選組の隊士が傷つけた刀傷が残されていました。


7、池田屋

c0187004_20573920.jpg  新選組が最も華やかな成果を挙げたのが池田屋事件です。

 三条小橋近くの旅籠池田屋に集合していた尊王攘夷派の浪士たちを急襲し、多くの志士が殺傷された事件です。

 現在の池田屋は、はなの舞となっています。

c0187004_21132793.jpg 池田屋の店内ですが、2階から3階に上る階段です。

 この写真でははっきりしませんが、階段を登りきると、下段の写真のように、新選組隊士が待ち受けています。

c0187004_21005409.jpg

c0187004_20575466.jpg はなの舞でのランチサービスには、次のように新選組隊士の名前がつけられています。

「土方歳三」
「沖田総司」
「斉藤一」
「藤堂平助」
「原田左之助」
「山南敬介」

 右上写真は、私が注文した「土方歳三」です。値段は1200円で、それ以外は980円でした。








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# by wheatbaku | 2017-03-16 20:42 | 『幕末』 | Trackback
京都を死場所とする覚悟で臨んだ会桑両藩(幕末)

京都を死場所とする覚悟で臨んだ会桑両藩(幕末)


会津藩主松平容保が、京都守護職を引き受ける時に、会津藩では、容保主従が、京都を死場所とする覚悟で引き受けたという話は比較的広く知られた話です。


これについて、会津若松城攻防の際に防衛総督として戦闘を指揮した山川浩が書いた『京都守護職始末』では、次のように書かれています。

『京都守護職始末』東洋文庫版は金子光春の口語訳ですが、それでもわかりにくいと思われる部分がありますので、私なりに理解しやすいように語句を変更していますので、ご容赦ください。

四、西郷、田中両家老の諌止(注:タイトルです) 
京を死場所に

 松平容保が、京都守護職を拝命すると決心したとき、たまたま家老の西郷頼母と田中土佐が会津から道を急いで到着し、松平容保に謁見した。

c0187004_22563396.jpg そして、この頃の情勢から見て、幕府の形勢が不利であることを述べ、いまこの至難の時局に当るのは、まるで薪を負って火を救おうとするようなもので、おそらく労多くしてその功がないだろうと、誠意をこめて諌めるのであった。

 松平容保は、その席にいる江戸家老横山主税等を召して、西郷頼母らのことばを告げ、「京都守護職を固辞することは、私の最初の考えであったが、しかし将軍家からの要請がしきりに下り、家来としての心構えからはもはや辞退することができない。聞き及ぶと、最初、私が再三固辞したのは一身の安全を計るためであらうとするものがあったと聞く。そもそも会津松平家には、将軍家と盛衰存亡をともにすべしという藩祖保科正之の遺訓がある。そのうえ数代に亘って将軍家からは御恩をこうむっていることを一日たりといえども忘れたたことはない。ただ、私自身が能力がないため、万一の過失から将軍家に累を及ぼすことはないだろうかと、そのことを怖れただけのことである。他の批判で進退を決するようなことはないが。いやしくも安寧をむさぼるとあっては決心するよりほかはあるまい。しかし、このような重大な任務を拝命するとなれば、我ら君臣の心が一致しなければその成果を挙げることは困難だろう。皆の者、よく議論をつくして私の進退のことを考えてほしい」とのことであった。

c0187004_22564175.jpgそのため、横山主税をはじめ、いずれも松平容保の心持ちに感激し、このうえは重大な任務につくばかりであり、ほかのことなどとやかく議論すべき時ではない君臣ともに京都を死場所としようとついに衆議一決した。 

このように、会津藩では、京都守護職を拝命すれば会津藩の将来が危うくなる怖れがあるということを承知したうえで、拝命しています。

拝命した時に予想していたことが、その後の情勢の変化で、図らずも起きてしまったということになるようです。

右写真、最上段は、金戒光明寺の山門、2段目は御影堂です。

会津藩が京都守護職を拝命した時と同様な状況が桑名藩にもあったようです。

桑名藩では当時の史料があまり残されていないようですが、桑名博物館発行の「京都所司代松平定敬」展示図録掲載の「幕末の政局と桑名藩」によれば、元治元年(1864)春に将軍家茂が京都を離れて江戸に帰ろうとした時に、桑名藩は将軍が江戸に帰ることに反対したようです。

それに関する解説で、「幕末の政局と桑名藩」には、次のように書かれています。

c0187004_22564427.jpg桑名藩士高野一郎左衛門が書いた手紙には、「今将軍が京都を離れては、慶喜が実権を握って長州も上京するに違いなく、そうなっては京都は定敬の『墓地』になる」と書いてある。高野はこの時「嘆息流沸」の体で、海路上京する幕臣に同行して[是非是非還御御差留]に向かう勢いであったという。

 このように、桑名藩士の中には、京都所司代を勤めていくことが、松平定敬の墓地になるという認識をしている者もいたようです。


そして、「幕末の政局と桑名藩」の最後には

また、松平定敬本人にとってみればこの人事は、(中略)その端緒においては全く受動的な形で中央政局に登場したということができるだろう。(中略)  図らずも火中の栗を拾った桑名藩と定敬は、後戻りのできない幕末政局のうねりへと、その身を投じていくのである。

と書いてあります。


 やはり、桑名藩も会津藩と同じように、京都を死場所と覚悟して、あえて火中の栗を拾ったようです。

右上写真は、桑名城の天守台跡です。

天守台跡には戊辰戦争の犠牲者を追悼し手明治20年に建てられた「戊辰殉難招魂碑」が建っています。


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# by wheatbaku | 2017-03-15 16:40 | 『幕末』 | Trackback
京都守護職と京都所司代(幕末)

今日は、京都守護職と京都所司代との関係について書いていきます。

 

 会津藩主松平容保は、文久2年(1862)閏8月1日に就任して以来、一貫して京都守護職に就任していて、京都守護職は松平容保ただ一人が就任していたように思う方が多いと思います。

 しかし、厳密にいうと、京都守護職に松平春嶽も就任していたことがあります。

元治元年(1864)2月11日、松平容保は陸軍総裁(のちに2月15日に軍事総裁と改められる)に任命されました。

これは前年の文久3年(1863)の8月18日の政変により長州藩が追放され、元治元年に長州藩を処罰する方針が決定されたための人事と言われています。

松平容保の後任として、京都守護職には松平春嶽が任命されました。

しかし、2か月後の4月7日には京都守護職に復職しています。

これ以降、王政復古の大号令が出され、京都守護職が廃止されるまで、松平容保が京都守護職に就任していました。

さて、今日は、よく見ると幕末政治に大いに関係する人たちが京都所司代となっていますので、京都守護職の下にあった京都所司代についてみておきます。

京都所司代は、江戸幕府の西国支配の中心的役割を果たす重要な職制です。

c0187004_22124700.jpg その役割は、朝廷の守護、公家・門跡の監察、京都市中の法制・裁判、五畿内および近江、丹波、播磨の8か国の公事・訴訟の管掌していました。(『国史大辞典』より)

 幕藩体制確立期に大きな地積を残したのは、板倉勝重・重宗父子でした。

c0187004_22125851.jpg しかし、幕末になると、京都所司代だけでは、京都の治安を維持するのが難しい情勢となり、武力をもった京都守護職が設置されました。

 京都守護職が設置されると、京都所司代は京都守護職の下部組織となりました。

 京都所司代上屋敷は、二条城の真北、元の待賢(たいけん)小学校の場所にありました。

 右上の写真2枚は、5年前に訪ねた時の写真です。

 それでは、松平容保が京都守護職に就任していた際の京都所司代の顔ぶれをみていきます。3人が京都所司代でした。

 牧野忠恭(ただゆき)、稲葉正邦、松平定敬の3人です。

 文久2年閏8月1日に松平容保が京都守護職を拝命した時の京都所司代は、丹後宮津藩主本庄宗秀でした。
 しかし、本庄宗秀は、文久2年6月30日に任命されましたが、就任反対意見が強く実際には着任できませんでした。

 その本庄宗秀の替りに、文久2年8月24日に京都所司代となったのが、越後長岡藩主牧野忠恭です。

 越後長岡藩といえば、戊辰戦争で、河井継之助をリーダーとして新政府軍と戦った藩です。

 松平容保が京都守護職として京都に入京した際の京都所司代は牧野忠恭でした。

c0187004_22175183.jpg 入京翌日には、牧野忠恭が松平容保に挨拶に参上しています。

 牧野忠恭が京都所司代の時、河井継之助も京都に来ていました。

司馬遼太郎の『峠』では、藩の外交を担当する公用方に任じられていて、会津藩との情報交換も担当していたと書かれています。

 その河井継之助は、長岡藩主が長く京都所司代を勤めていても、長岡藩にメリットはないと考え、牧野忠恭に辞任するよう建言し、牧野忠恭は文久3年6月11日に辞任しています。約10カ月の在任期間です。

 『峠』では、河井継之助が所司代辞任を老中に願い出たと描かれています。

 この後任が、淀藩藩主稲葉正邦です。

 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の入場を拒んだことで有名な淀藩の藩主です。

 稲葉家は、春日局の夫稲葉正成を藩祖とする家柄で、譜代の名門です。

c0187004_22130234.jpg 淀城には、稲葉正成を祭神とする稲葉神社があります。 右写真は先日訪ねて時の写真です。

 淀は、桂川・宇治川・木津川が合流する交通上・軍事上の重要地点です。

ですから、譜代名門の稲葉家が藩主を任されていたわけです。

 淀から京都は目の先ですので、家柄・距離等を考慮しての人選なのでしょう。

 この稲葉正邦は、元治元年4月11日に、老中となり転任しています。

 稲葉正邦も約10カ月に在任期間でした。

 

 稲葉正邦の後任として元治元年4月11日に京都所司代に任命されたのが、桑名藩主の松平定敬です。 

桑名藩松平家は、老中松平定信を出した譜代の名門です。定信の子供定永の代に奥州白河から桑名に転封となっています。

c0187004_22130727.jpg桑名城跡には、松平定信を祭神とする護国守国神社(*1)が鎮座しています。

1:松平定信が守国公と呼ばれ、藩祖松平定綱が護国公と呼ばれ、護国守国神社にはこの2人が祭神です。

 そして、松平定敬は、高須藩主松平義建の8男で、松平容保の実弟でもあり、桑名藩の養子となっていました。 

 つまり、実兄の松平容保との関係を重視した人選であったようです。

 よく見ると、4日前の4月7日には、実兄の松平容保が京都守護職に再任されていますので、この人事と一帯の人事だったようです。

 先日訪ねた桑名博物館発行の「京都所司代松平定敬」展示図録(平成2010月発行)に掲載されている『幕末政局と桑名藩-松平定敬の京都所司代就任の政治背景-』(奈良勝司氏著)には、桑名藩では、松平定敬の京都所司代就任を予期していなくて、主君の任官に困惑していたそうです。

また、この人事は次の2点から特異だったそうです。

①京都所司代は通常は雁間詰か帝鑑間詰の譜代大名がなるが、定敬はより上位の溜間詰であり、また任命の際には、決して辞退すべからず、兄の松平容保と協力して職務にあたるべしとの内命を受けていたこと。

②京都所司代は、通常は大阪城代か寺社奉行を経験した後に任命されるが、松平定敬は、大阪城代や寺社奉行の経験もしていない中での抜擢であった。

 この桑名藩主松平定敬の任命により、いわゆる「一会桑政権」(*2)が誕生することになります。

 *2:「一会桑」という言葉は『孝明天皇と「一会桑」』P85を読むと家近先生が命名した言葉のようですね。



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# by wheatbaku | 2017-03-14 07:11 | 『幕末』 | Trackback
京都守護職ゆかりの地(幕末)

 京都守護職の本陣は、金戒光明寺に置かれたことは前回書きました。

 しかし、京都には、金戒光明寺のほかに、京都守護職ゆかりの建物があります。

 まず、現在の京都府庁の敷地内に石柱があります。

 そのほか、二条城近くの京都国際ホテル敷地内や岡崎の平安神宮の駐車場に門が残されています。

 これらは、今回の旅行では訪問しませんでしたが、以前書いたものがありますので、再度掲載しておきます。
 以前、掲載したものですので、現場の様子が変わっているかもしれませんがご容赦ください。

 現在、京都府庁は欅並木の美しい釜座(かまんざ)通りの正面にあります。
c0187004_11583142.jpg 京都府庁庁舎の旧本館は国の重要文化財です。
 明治37年12月20日に竣工し、地上2階建、延床面積約6,100平方メートルあります。工期3年余、総事業費は当時では破格の約36万6千円を要しました。
 建物の外観は、正面の一段高くなった屋根を中心として左右両翼に対称に張り出した形となっています。すごく風格のある立派建築物で驚きました。

 幕末には、ここに京都守護職の屋敷がありました。
 会津藩は、江戸時代、京都に藩邸を持っていませんでした。
c0187004_1159190.jpg そのため、文久2年(1862)12月、藩主の松平容保が京都守護職に任命され上洛した当初は、黒谷の金戒光明寺を本陣としました。  
 しかし、文久3年の末ごろから次第に御用屋敷が仁備されていきました。
 まず、京都所司代屋敷の北側に御用屋敷が造営されました。
 さらに、京都守護職の中心的な屋敷が、下長者町通りを北辺とし、南辺を下立売通り、東辺を新町通り、西辺を西洞院通りとする範囲に築造されました。
 これが、現在の京都府庁になっている場所です。
 京都府庁正門を入ると右手に石柱と『説明板が設置されています。
 休日には正門が閉鎖されていて、東門からのみ入れます。
 
 京都守護職の中心屋敷は、現府庁である釜座(かまんざ)の屋敷ですが、松平容保は、京都守護職屋敷に常駐していたわけではないようです。

 
 京都守護職の屋敷の門が、京都市内に2か所残されています。
c0187004_1202440.jpg 京都守護職屋敷門が、二条城近くの京都国際ホテルの東側駐車場に残されています。
 江戸時代、京都国際ホテルの敷地は江戸時代には越前福井藩の京屋敷でした。
 ここに、京都守護職屋敷の西洞院御門を明治になって移築したというのが京都国際ホテルの説明でした。
 ちなみ、京都国際ホテルの敷地は、明治になってからは、藤田観光などの創業者藤田伝三郎の別邸でした。

 また、もう一つ京都守護職屋敷の門が残されていました。
 c0187004_1204186.jpgそれは、京都会館北側の冷泉通りに面した平安神宮の駐車場に残されています。
 現在は、駐車場の片隅にあるように見えます。
 しかし、この門の北側には、京都武道センターがあります。その中に、明治28年に建てられ、国の重要文化財に指定されている旧武徳殿があります。
 元京都守護職屋敷門は、もともと、この武徳殿の正門として利用されていたものです


 以上書いた門のほかにも、京都守護職ゆかりの地があります。

 京都御所の東側にある清浄華院(しょうじょうけいん)を松平容保が一時期宿舎にしてこともありました。
c0187004_11594796.jpg このことは、清浄華院のお坊さんの説明もありました。
 現在、清浄華院の阿弥陀堂となっている建物は、以前は松林院という塔頭だったそうです。これが、松平容保の宿舎として利用されました。
 これは、文久3年12月13日、翌年正月の将軍家茂の上洛が予定されていたため、それまで仮館としていた施薬院から清浄華院に移ったのです。
 それは、将軍が参内するときには、必ず、施薬院で衣冠を改めていたため、家茂の上洛の際には家茂が使用するようになるからです。  

c0187004_120951.jpg また、御所の南にある凝華洞(ぎょうかどう)を仮館にしたこともあります。
 凝華洞跡についての説明板には次のように書かれていました。
 江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。
 1864(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮宿舎にしました。

 このように、幕末期は激動の時期でしたので、京都守護職の松平容保の宿舎は、その時の情況に応じて臨機応変に変わったものと思われます。

 さらに、鴨川の東側の聖護院村にも用地を与えられ、ここを練兵場として活用しました。
 このように、会津藩では京都守護職の任務を果たすため、いくつかの屋敷が整備されました。

 













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# by wheatbaku | 2017-03-12 12:33 | 『幕末』 | Trackback
金戒光明寺

 今日から、京都の幕末史跡を紹介していきます。

 まず手始めは、金戒光明寺です。

c0187004_15021698.jpg 金戒光明寺は、京都の東側の黒谷(くろだに)にあります。

 京都の人には、「金戒光明寺」というより「くろだにさん」と言ったほうがわかりやすいようです。

 さて、黒谷ってとこだろうという人が多いと思いますが、平安神宮の北東部にあたります。

 京都駅から市バスで「岡崎道」で降りると金戒光明寺はまもなくです。
 右上は、山門、右下は御影堂です。

c0187004_14541090.jpg 金戒光明寺は、浄土宗の大本山で、法然上人が比叡山を下りて、初めて草庵を結んだ浄土宗最初の寺院だそうです。

 幕末ファンにとっては、京都守護職会津藩主松平容保が本陣を構えたことで有名です。


 そこで、まず京都守護職という役職について説明します。

 京都の治安は、京都所司代・京都町奉行が守ることになっていました。

 しかし、幕末に尊王攘夷運動が盛んになるに従って、尊攘派による天誅などが横行し、市内の治安が非常に悪化しました。
 そのため、所司代・奉行所のみでは治安維持が難しくなったため、新たに京都守護職という役職が定められました。

 この京都守護職に就任を要請されたのが、会津藩主の松平容保です。

 なぜ、会津藩に白羽の矢があたったかというと、それは徳川慶喜が明治になって「昔夢会筆記」の中で次のように言っているように、その武力に依存したものでした。

 「所司代では兵力が足らない。ところが浪人だの藩士だのが大勢京都に集まり、なかにも長州だとか薩州だとか、所司代の力で押えることはできかねる。そこで諸語職というものができたんだ。(中略)兵力のある者をあすこへ置こうというのが一番最初の起りだ。それで肥後守が守護職となった。」

 しかし、松平容保は、この就任要請を再三にわたって断りました。

 そこで、松平春嶽は、藩祖保科正之が定めた家訓(かきん)の第1条「徳川宗家の言うことに従わない藩主は藩主として認めなくてもよい」(*)を盾に哀願と脅しで迫りました。(「歴史読別冊『会津歴史読本』から」

*家訓第一条の原文は次の通りです。

一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。

  若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

 松平春嶽が強硬に就任を要請した背景には、会津藩がこの困難な貧乏くじともいうべき役職をことわれば、次は京都に近い福井藩に白羽の矢が立つのではないかという恐れがあったとも『会津歴史読本』には書かれています。

 こうした強い要請により、松平容保は、守護職を拝命することになりますが、この連絡を受けて、会津にいた家老の西郷頼母・田中土佐は、急遽出府し、容保を諌めて「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対しましたが、容保の意思は変わらず、主従がともに「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたといわれています。

 京都守護職を拝命した松平容保は家臣1千名を率いて文久2年12月24日、京都三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、金戒光明寺に入る前に、本禅寺で旅装を麻上下に改め、禁裏北側の時の関白近衛忠熙卿に出向き着任の挨拶をした。このあと馬を連ね本陣と定めた黒谷の金戒光明寺に入りました。(『幕末の会津藩』星亮一著より)

c0187004_14541856.jpg 金戒光明寺が本陣に選ばれた理由として金戒光明寺のホームページには、①城構えであること ②千名の軍隊が駐屯できること ③二条城などに近いことを挙げています。

 ①城構えであることは現在の金戒光明寺を見てもわかります。

 まず表門が高麗門(右上写真)となっています。

 高麗門というは一般的にはお城の城門として利用されるものです。

c0187004_14543204.jpg この様式の門が表門として設置されていることでも、城を意識した建造物であることがわかります。

 また、山門(右写真)は、厳重な石垣の上に建立されたおり荘厳なものです。石垣も城郭を思わせるほど立派なものです。

c0187004_14542431.jpg ②千名の軍隊が駐屯できることですが、金戒光明寺は、約四万坪の大きな寺域があり、その中に大小52の宿坊があり1千名の宿舎が十分確保できる規模でした。実際に駐屯の為に大方丈及び25の宿坊が寄宿のため明け渡したという文書が金戒光明寺には残されているそうです。

 その明け渡された大方丈(右上写真)には、前回ご案内した通り、謁見の間がありました。

c0187004_14565606.jpg「謁見の間」では、近藤勇など新選組の人たちも謁見もおこなわれたそうです。

右写真は金戒光明寺のパンフレットからの転載した「謁見の間」です。これは金戒光明寺さんの許可を得たものです。

 金戒光明寺があげている理由のほかに、私はもう一つ大きな理由があると思います。

c0187004_14543524.jpg それは、金戒光明寺と徳川将軍家の特別の関係です。

 金戒光明寺には、2代将軍秀忠の正室お江、徳川忠長、春日局などのお墓があります。
 右写真はお江のお墓です。

 それだけ、徳川将軍家から篤い崇拝を受けてきた証しだと思います。

 こうした将軍家のとの関係があったことも、京都守護職の本陣が金戒光明寺に置かれた理由だと思います。




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# by wheatbaku | 2017-03-08 13:58 | Trackback
  

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