1、時の鐘の由来
大道寺友人という人の「落穂集追加」によると、家康が江戸に入国した頃、城内に鐘撞堂があって、6時の鐘をついていたが、やかましかったため、鐘をやめて太鼓を打たせた。しかし、秀忠の代になって、鐘を聞きなれていた人々のために、町内に場所を見立てて、鐘を撞くよう仰せ付けられ、町奉行が石町に鐘撞堂を造らせたのが、石町の時の鐘の起源とあります。
2、時の鐘はいつつくられたか
時の鐘が設けられた時期には主として2つの説があるそうです。①寛永3年説(つまり家光の代)、②秀忠の代の2つです。寛永3年説が有力とのことです(十思公園の案内板にもそう明記されていました)が、著者は②秀忠の時代の元和4年にできたという説をとっています。
3、鐘撞堂の形はどうか
鐘撞堂は、京間2間(3.94メートル)四方で、高さ3尺(91センチメートル)の石垣を築いた土台の上に、2間四方、高さ京間4間(7.88メートル)の3階建ての鐘楼が建っていたということで、全体では約9メートルとなり、かなり高いものだったようです。
4、時の鐘の届いた範囲は
石町の鐘の音が届いた範囲は、初めのころは、東は隅田川畦の浅草三好町、西は飯田町より麹町13丁目まで、南は芝浜松町4丁目、北は本郷6丁目までで、新吉原5町分が入り、総町数300町だったとのことです。
現在の地名で大雑把に言えば、浅草から東大そして飯田橋さらに浜松町ということになりますので、相当広い範囲で時の鐘が聞こえたことになります。