そこで、玉川上水を中心に江戸の水道について数回に亘って記します。
神田上水
江戸ッ子の条件はいろいろありますが、「金の鯱(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯に浴びて・・」と江戸城の近くで生まれ、水道の水を産湯に使うことが第一の条件とされていました。それほど、江戸っ子にとっては、水道が大切でしたし、自慢でもありました。
もともと江戸は水事情が非常に悪い土地でした。当時の技術では深い井戸が掘れず、海に近い湿地を埋め立てた土地が多かったため、井戸を掘っても塩分の強い水が出るなどしました。
そこで、江戸では飲料水の確保のため、徳川家康が江戸に入った天正18年には、早々と神田上水の元となる小石川上水が大久保藤五郎忠行によって開発されたと言われています。
神田上水は井の頭池を主な水源として、善福寺川と妙正寺川を合わせて、神田川を流れ、目白の関口で取水し、神田川を現在の水道橋近くの懸樋(かけひ)で越えて、暗渠で江戸城内に入りました。さらに、神田や日本橋にも給水しました。
大久保忠行は、水道を開発した功績により主水の名を与えられましたが、通常は「もんど」と呼ぶところをあえて「もんと」と濁らずに名乗ったというおやじギャグのような話が残ってます。
玉川上水
その後、江戸の人口は増え続け水が不足してきたため、新たな水道が必要になりました。
そこで、江戸の水源を確保するために、多摩川から水を取り入れた玉川上水が掘られました。
玉川兄弟が工事を請負い、4代将軍家綱の承応2年(1653)に工事が始まり、承応3年(1654)には虎ノ門まで完成しました。この兄弟の名前は、庄右衛門・清右衛門と言います。玉川兄弟については、多摩地方の出身という説と江戸の町人とする説があります。町人だった2人は、玉川上水の完成後に、玉川の姓を賜わり、上水の管理の仕事も任されました。
この玉川兄弟の銅像が取水堰近くにあります。取水堰を向いて銅像は建っていますが、立っているのが兄庄右衛門、座っているのが弟清右衛門です。昭和33年(1958)に建設されたものです。