①肥後菊、②肥後椿、③肥後山茶花(ひごさざんか)、④肥後花菖蒲(ひごはなしょうぶ)、⑤肥後芍薬(ひごしゃくやく)そして⑥肥後朝顔の6つを「肥後六花」と呼びます。
肥後六花は、もともと肥後熊本藩6代藩主細川重賢(しげかた)のときに、武士のたしなみとして始められたものです。
この「肥後六花」の中に、 「肥後朝顔」 が入っています。
「肥後朝顔」は、花の大きさが10cm~12cmの中輪咲きの朝顔です。
肥後朝顔は、特に伸びやすいつるをつまずに所定の寸法に抑えて作るなどのいろいろな厳しい栽培方法が決められていて、現在もその方法が守られているということです。
また、幕末・明治維新当時の品種が今なお栽培されています。
右の写真の「司紅」は明治36年の肥後朝顔涼花会の規約のなかに出てくるそうで、100年以上も栽培されてきた品種です。
「肥後朝顔」は、つるが成長しないように草丈40cmに抑え、花を鉢土の表面からおよそ4分の1の高さに咲かせるように仕立てるそうです。
肥後朝顔は、床の間に、花の色を按配して、奇数の鉢を上下に段に配列し、早朝から10時まで品評観賞するなど、鑑賞法も決まりがあるとのことです。
夏目漱石は、明治29年から4年間、旧制五高の教授として熊本に住んでいましたが、明治29年に作った俳句に朝顔の俳句があります。
朝顔の黄なるが咲くと申しきぬ
熊本では、明治20年代から朝顔栽培が大流行しましたが、そういう時期に、黄色の朝顔が咲いたことが大きなニュースになったようです。
もともと、朝顔の花の色は淡青色で、長い間、青一色でした。江戸時代に入って、ようやく白色の花を咲かせられるようなり、その後、色が増えてきました。
しかし、黄色の花はなかなか咲かせられなかったようです。従って、黄色の朝顔が咲いたことが大きな話題になったのでしょう。
「アサガオホームページ」さんによると、現在でも、はっきり黄色とよべる系統はないそうです。
肥後六花をはじめた細川重賢について少し触れます。
細川重賢は、藩校時習館の創設や殖産興業など宝暦の改革と呼ばれる藩政改革を行い、「「肥後の鳳凰」と言われた名君です。
そして、出羽米沢藩の上杉鷹山や紀州藩の徳川治貞(紀州の麒麟)とともに江戸時代中期の三名君と称されています。
今回で、「入谷の朝顔まつり」にあわせた「朝顔シリーズ」をひとまず終わります。
このシリーズでは、九州大学の仁田坂先生の「アサガオホームページ」掲載の写真や記事に大変お世話になりました。昨日・今日の写真も転載させていただきました。ありがとうございました。
「アサガオホームページ」さんは、専門的な情報が満載ですので、朝顔についてもっと詳しく知りたい方は一度ご覧になるとよろしいと思います。