第1回は、 西念寺と服部半蔵 です。
西念寺は、JR「四谷駅」赤坂口から歩いて7分ほどかかります。新宿通りを行き、ホテル東急スティ四谷の脇を南に入っていくとまもなくあります。
西念寺は、文禄2年(1593)に服部半蔵正成が創建した寺です。
山号・寺号は、服部半蔵の法名「専称院殿安誉西念大禅定門」からとって、「専称山安養院西念寺」と言います。
本堂に山号「専稱山」の額がかかっていました。
当初は麹町清水谷にあり、寛永11年(1634)の江戸城の拡張工事によって、現在地へと移りました。
服部半蔵正成は、徳川家康の三河時代からの旧臣で、本名を石見守正成といい、徳川十六神将の一人です。
槍の名人であり、伊賀忍者を統率する立場でした。
天正7年(1579)、家康の長男信康は、織田信長のために切腹を命ぜられました。
その時、服部半蔵正成は、介錯を命ぜられましたが、介錯をすることが出来ず、家康は「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできなかった」と半蔵正成をより一層評価したといいます。
西念寺の本堂の奥に、信康の供養塔(右の写真)があります。
後年、世の無常を感じた半蔵は、信康を供養するため仏門に入り、麹町清水谷に安養院を建立しました。そして、文禄2年に信康の冥福を祈念するための一宇の建立のを内命を家康から受けます。しかし、完成する前の文禄4年に没します。その後、寺院が完成し、「西念寺」となりました。
寛永11年には、江戸城の壕の拡張工事に伴い四谷に移りました。
服部半蔵は、55歳で没し、自らの創建した西念寺に葬られています。
墓(右の写真)は、本堂右隣にあり新宿区指定史跡です。
【半蔵の槍】
半蔵は槍の名手としても知られ、当時「槍の半蔵」の異名もありました。寺で所蔵する区登録文化財の槍は、半蔵が徳川家康から拝領したものだそうです。
先端が30センチ、矢尻150センチを戦災で損壊したそうですが、それでも全長が258センチ、重量7.5キロもある大きな槍です。
半蔵の槍は、本堂の脇の和室の床の間に飾られています。
ご住職の奥様の話では、全体では4メートル超にもなるので、実際に戦闘に使ったのではなく、飾ったのでないかとのことでした。
服部半蔵のイメージは忍術使いという印象が強いのですが、実際は槍の名人として活躍した武士であり、忍者ではなく伊賀同心の支配役であると言われています。
なお、半蔵門は、半蔵の屋敷が門前にあったことから名づけられたといいます。