国士舘大学や若林公園を過ぎて約10分で到着します。
吉田松陰は、安政の大獄で刑死しましたが、その安政の大獄を指揮したのは、井伊直弼です。
安政の大獄の当事者同士が、広い大江戸のなかで、歩いてたった10分のところに眠っているのも不思議な感じがしました。
松蔭神社のある場所はかつて長州毛利藩藩主毛利大膳大夫(だいぜんだゆう)の別邸のあったところで大夫山(だいぶやま)と呼ばれていました。
吉田松陰は、安政6年(1859)10月27日、安政の大獄により、江戸小伝馬町の牢屋敷にて30歳の若さで刑死しました。
吉田松陰が亡くなったのが1859年ですので、今年は松蔭没後ちょうど150年目にあたります。
刑死の4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作や伊藤博文など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が現在の墓所に改葬されました。
松陰の改葬と同時に、安政の大獄で刑死した頼三樹三郎、小林民部良典(よしすけ)も同じく回向院より改葬されました。
禁門の変の後、長州征伐の際に幕府によって松陰以下の墓は破壊されましたが、木戸孝允等の手によって、明治元年(1868)に松陰以下の墓を修復しました。
松陰神社は、明治15年(1882)に、門人を中心に墓の側に松陰を祀る神社として創建されました。
現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されました。
【吉田松陰の墓】
吉田松陰の墓は、松陰神社の西側の墓所の中にあります。
吉田松陰は独りでねむっているのではなく、多くの人とねむっています。
墓所の説明板「吉田松陰先生他烈士墓所」は次のように説明しています。
『文久3年(1863)正月。
高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三(やまおようぞう、白井小助、赤根武人(あかねたけひと)等は、松陰先生の亡骸なきがらを千住小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)よりこの世田谷若林大夫山(だいぶやま)の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。
同時に小林民部(こばやしみんぶ)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)も同じく回向院より改葬。(中略)
禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。(中略)
昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。』
頼三樹三郎は、頼山陽の子供で、安政の大獄で逮捕され、松蔭が処刑される前の10月7日に、小伝馬町牢屋敷で処刑されました。
小林民部良典(よしすけ)は、鷹司家の諸太夫(しょだいぶ)で、関白鷹司政通が攘夷派へ変わったキーパーソンです。 安政の大獄で捕えられ、遠島刑となり、後に肥後人吉藩預かりに減刑されましたが、獄中で病没した人物です。
【吉田松陰終焉の地の碑】
吉田松陰終焉の地の碑が、小伝馬町牢屋敷跡である十思公園にあります。
先日の日本橋散策ツァーでもご案内しました。
この碑は、昭和14年に、萩の有志の人が建てたものです。
碑には、「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」という辞世の歌が刻まれています。
ところで、松陰のお墓は、世田谷の松蔭神社、千住の小塚原回向院、萩の吉田家の墓地にそれぞれあります。