その高野長英のゆかりの地が、東京に残されていますので、順に紹介します。
今日は、麹町の貝坂にある、 「大觀堂学塾跡」 を紹介します。
高野長英は、文化元年、奥州水沢(現岩手県奥州市)に生まれました。
仙台藩主伊達家の一門留守家の家臣後藤実慶(さねのぶ)の三男として生まれました。
9歳のとき父実慶が死亡し、母方の伯父である医者の高野玄斎(母は高野玄斎の妹美代)の養子となります。
17歳で兄堪斎(たんさい)に同行して江戸に遊学し、杉田拍元(はくげん)(玄白の養子)の門に入ります。
この時に、夜は按摩をして学費を稼いだという話もあります。
やがて、吉田長叔(ちょうしゅく)の内弟子となり、蘭方医学を修めました。
19歳の文政5年(1822)に長淑から長の字をもらい長英と改めます。
文政8年(1825)長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾に入り、本格的に蘭学を学びました。
文政11年(1828)シーボルト事件が起こると長崎を離れ、肥後、日田、尾道、京都などを訪ねています。
そして、天保元年(1830)江戸に戻り、麹町(こうじまち)貝坂で、医者を開業し、蘭学塾「大觀堂学塾」を開き、診療や門人育成を行ないました。
【麹町貝坂大觀堂学塾】
麹町貝坂は、東京メトロ麹町駅1番出口から2分の距離にあります。
しかし、私は、山田浅右衛門屋敷跡から向かいました。浅右衛門屋敷跡からも約2分です。
貝坂は甲州街道(新宿通り)からは南に下る坂になります。
貝坂の上にある千代田区の説明板には、
「『江戸名所図会』には「この地は昔より甲州街道にして、その路傍にありし一里塚を土人・甲斐坂と呼びならわせしとなり。或る説に貝塚法印というが墓なりともいいてさだかならず」と書かれていますが、貝塚があったというのが定説となっています。」 と書かれています。
この説明板の向かい側の建物の壁に、 「麹町貝坂 高野長英 大觀堂学塾跡」 と彫られた石製のプレートが埋め込まれたような形で取り付けられています。
写真の左側の白い建物に黒いプレートの説明板が埋め込まれているのがわかりますか。
現在は、貝坂通りという名前がついています。この標識は、平河町の交差点に建てられていたものです。
平河町の交差点から北に向かう通りが貝坂通りです。
最上段の高野長英の肖像画写真は、岩手県奥州市にある高野長英記念館が所蔵している「高野長英画像」です。
渡辺崋山の弟子で、文人画で有名な椿椿山(つばきちんざん)が描いたもので、重要文化財となっています。
この写真は、高野長英記念館の使用許可をいただき掲載しています。
掲載の許可取得にあたっては、担当の I さんに大変お世話になりました。ありがとうございました