現在は、昌平橋の上手の相生坂(昌平坂)を登ると右手にありますが、今日から、 「湯島聖堂」 についてご案内します。
【湯島聖堂の歴史】
右の写真は、仰高門前の標柱ですが、湯島聖堂の歴史を概略書くと次のようになります。
寛永9年(1632)、林羅山が、上野忍ヶ丘の邸内に孔子廟を建てました。
尾張藩主徳川義直はこれを助けて、孔子の聖像と顔子・曾子・子思・孟子の四賢像や祭器を寄付し、「先聖堂」の扁額を書いて与えました。
これらの維持運営はその後代々の林家当主(大学頭)が継承しましたが、元禄3年(1690) 将軍綱吉は、聖廟を神田台(現在の湯島)に移し、先聖殿を大成殿と改称し、湯島聖堂が落成しました。
元禄16年(1703)、大火のため、大成殿・学寮・御成殿などが全焼したが、宝永元年(1704)大成殿を再建復旧しました。このとき同時に復旧した入徳門は、現在も残っています。
享保2年(1717)には 仰高門東舎において、毎日儒学の講義(日講)を開き、庶民にも開放されました。
そして、寛政2年(1790)、いわゆる「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、寛政9年(1797) 昌平坂学問所(昌平黌)となりました。
湯島聖堂は、元禄12年、安永元年、天明6年に大火にみまわれた後、関東大震災により入徳門と水屋を残し、すべて焼失してしまいました。
現在の大成殿は、昭和10年に再建されたものです。
上の写真は、西門にある案内板です。
湯島聖堂の建物の紹介は明日からにして、広重の描く名所江戸百景にも湯島聖堂と昨日紹介した昌平橋が描かれていますので、その紹介をします。
【昌平橋 聖堂 神田川】
名所江戸百景のうちの「昌平橋 聖堂 神田川」です。
右下隅に描かれているのが昌平橋、中央を流れるのが神田川です。左の崖は駿河台です。
正面の坂が相生坂(昌平坂)、坂の脇の白壁が聖堂の塀で、その奥の森が湯島聖堂です。
右側下部の相生坂(昌平坂)の坂下の船だまりは昌平河岸と呼ばれました。
なお、昨日書いたも昌平橋について、江戸名所図会は、次のように書いています。
『昌平橋は、これ(筋違橋)より西の方(かた)に並ぶ。湯島の地に聖堂御造営ありしより、魯の昌平郷(しょうへいきょう)に比して号(なづ)けられしとなり。初めは相生橋、あたらし橋、また、芋洗橋とも号したるよしいへり。太田姫稲荷の祠は、この地淡路坂にあり。旧名を一口(いもあらい)稲荷と称す』