さて、今日の話題は、吉夢を見るための宝船に乗っている、 「七福神」 についてです。
七福神は、室町時代末期に成立し、七福神詣では江戸時代後期に盛んになりました。
【七福神の由来】
「七福」という言葉は、「仁王護国般若波羅密経」というお経の中にある「七難即滅、七福即生 (七つの災難が即座に消滅し、七つの福徳が即座に生まれる) 」という言葉に由来すると言われています。
また、七人の神様を集めたのは、中国の「竹林の七賢人」を下敷きにしているということです。
そもそも、なぜ「七」かということですが、
仏教では、「七」のつく言葉は非常に多く、「七仏」、「七宝」等があり、「七」は特別な数だそうです。
また、中国でも「七」は「七曜」など特別な数で、さらに、日本でも「七」は古代から特別な数字だったそうです。
「七」にこだわるのは、このように、「七」を聖数と見る東アジアの風潮によっているというのが通説のようです。
【成立は室町時代末期の京都】
七福神は、室町時代末期に京都の町衆文化の中で成立したそうです。
当時、上方では、西宮の恵比寿、比叡山の三面大黒、鞍馬の毘沙門天、竹生島の弁才天が、篤く信仰されていました。
また、寿老人、福禄寿、布袋も画題として好まれていたそうです
こうした中で、恵比寿・大黒を軸に、毘沙門天、弁才天、福禄寿、寿老人、布袋らが加わって、七福神の原型ができました。
【江戸における七福神参り】
江戸では、11代将軍家斉の時代の享和年間(1801~1803)以降、七福神巡拝が盛んに行われるようになりました。
七福神巡りの最初は、谷中七福神といわれています。
享和雑記という本に次のように書かれていてます。
「近ごろ正月初出に、七福神参りといふこと始まりて、遊人多く参詣することなれり。
不忍の弁財天、谷中感王寺の毘沙門、同所長安寺の寿老人、日暮の里青雲寺の恵比寿・大黒・布袋、田畑西行庵の福禄神なり。近ごろ年々にて福神詣でする人多くなれり」
天保9年の東都歳時記には、
「正月 日不定、七福神参
大黒神、愛比寿 神田社地 或は上野清水堂の傍、
弁天 不忍池中、
毘沙門 谷中天王寺、
寿老人 同所裏門前長安禅寺、
布袋 日暮里、
福禄寿 山畑西行庵
或は寿老人を除きて、上野大仏の前 吉祥天祠へ参るあり」 と書かれています。
その後に山の手七福神参りについても
「山の手七福神参り 毘沙門 二本榎細川侯御やしきの前、 布袋 白金興聖寺天王殿、 寿老人・福禄寿 白金妙円寺妙見堂の内、 弁天 目黒蟠竜寺前、 恵比寿・大黒 目黒不動尊境内」 と書かれています。
現在は、「元祖山手七福神巡り」と名づけらています。こちらは昨年お参りしています。その時の様子はこちらです。
また、天保以前の文化・文政頃、向島にも、大田蜀山人、谷文晁、酒井抱一らによって七福神が置かれました。
これが、現在の隅田川七福神です。