呉服橋は、東京駅八重洲北口から歩いて4分のところに交差点の名前として残っています。
呉服橋は寛永6年(1629)奥羽諸候により建造されました。
明暦の大火で焼失した後、万治2年(1659)再建されました。
呉服橋という名前は、門前に呉服町があったからと言われています。
また、呉服師の後藤縫之助の屋敷があったことから、「後藤橋」とも呼ばれました。
呉服橋は昭和29年に撤去され、今は交差点の名前にその名を残すだけとなっています。
右の写真は現在の呉服橋交差点です。まるで面影はありません。
豊島寛彰の「江戸城とその付近」によると、明治元年10月13日に明治天皇が江戸城に入場する際に呉服橋を通って向かったとのことです。
【北町奉行所】
呉服橋の門内には、北町奉行所がありました。
元々北町奉行所は、常盤橋門内にありましたが、宝永4年に、常盤橋門内から数寄屋橋門内に移り、名前も南町奉行所となったので、呉服橋門内にあった奉行所が北町奉行所と名称を変更しました。
北町奉行所はその後一旦常盤橋門内に移りますが。文化3年に呉服橋門内に移り幕末を迎えました。
北町奉行で最も有名な人は、遠山左衛門尉景元でしょう。しかし、遠山景元が北町奉行であったのは天保11年から天保14年で、その後、大目付を経た後、弘化2年(1845)に、南町奉行となり、嘉永5年(1852)まで勤めたので、実は南町奉行の時代の方が長いということはあまり知られていないようです。
【東京駅内の北町奉行所跡の碑】 東京都教育委員会が設置した「北町奉行所跡の碑」が東京駅構内にあります。上の写真がそれです。
以前は、東京駅八重洲北口の国際観光会館の前にありましたが、現在は、、グラントウキョウノースタワーが建設されたので場所が変わりました。
八重洲北口の出口を出ると正面に大丸があります(左の案内図では、グラントウキョウノースタワーとなっています)。
その大丸に入店せずに大丸に沿って左に進むとtラストタワー本館に通じるドアがあります。
そのドアの手前右下部に設置してあります。
しかし注意しないと見落としてしまいます。
【丸の内トラストタワーN館の北町奉行所跡の碑】
こちらは、丸の内トラストタワーN館の東側に新しく作られた北町奉行所跡の碑です。
丸の内トラストタワーはツインタワーですが、その北側の建物N館と東側の第一鉄鋼ビルディングとの間のきれいに整備された狭いスペースに設置されています。
ビルの裏側の感じになり、あまり知られていないので、ちょっと捜しました。