今日は、和宮が1月13日に泊まった桶川宿と翌14日に泊まった板橋宿について書きます。
桶川旧本陣
桶川は中山道第6番目の宿場です。ここに文久元年11月13日に和宮が宿泊しています。
和宮が宿泊した桶川の旧本陣は現在も残っています。
写真は、中山道から撮った現在の旧本陣の門です。
門の奥に、旧本陣が残されているそうです。
【桶川宿旧本陣上段の間】
旧本陣は埼玉県の有形文化財に指定されていて、和宮が泊まった上段の間も残っています。
しかし、旧本陣は現在個人の所有となっていますので公開されていません。
そこで、桶川中山道商店会のHPから上段の間の写真を転載させてもらいました。
写真でみると8畳程の部屋のように思います。
上段の間では、毎年秋「桶川本陣・かがり火狂言会」を開催しているそうです。
【桶川市民まつり】
桶川では、11月3日の市民まつりの際に、和宮行列が行われるようです。
中山道宿場館という案内所の壁に、昨年の市民祭りのポスターが貼ってありました。
この写真は桶川市観光協会からの転載ですが、和宮は輿で行列しています。
実際の行列は輿であったのか駕籠であったのか、はたまた牛車であったのかいろいろ説があるようです。通過する場所や天候によって乗り物は変わったのだとは思います。
次の日は、桶川を出発した後、上尾・大宮で小休止し、浦和で昼食をとりました。
さらに、蕨で小休止して、戸田の渡船場を通り、縁切榎をさけるためにつくられた迂回路を通って板橋に入りました。
【縁切榎】
板橋の板橋宿のはずれ、「縁切榎」(現.板橋区本町)と呼ばれる木が立っていました。
縁起が悪いということで、和宮下向の際には、縁切榎をさけるための迂回路がつくられています。
そのルートは、中山道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬道、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿 上宿へ至る約1キロメートルの道のりでした。
この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承もありますが、それは、下向の際に出された不浄なものを筵で覆うことを命じた触書の内容が伝わったものと考えられています。
【板橋宿の脇本陣】
和宮は板橋宿の脇本陣の飯田宇兵衛家に宿泊しました。
脇本陣の飯田宇兵衛家は、宝永元年(1704)に本陣を飯田新左衛門に譲っていますが、飯田家の総本家であり、江戸時代を通じて名主、問屋、脇本陣を努めました。
和宮下向の際には、この飯田宇兵衛家が本陣役を勤め、宿所を提供しています。
飯田家の屋敷は門構え、玄関つきの建坪190坪という大きなものでした。
現在は、マンションとなっていて、板橋区教育委員会の説明板と石柱が設置していることがかろうじてその跡であることがわかります。
翌日は、和宮は風邪気味のため午前11時ごろに本陣を立ち江戸に向かい午後4時ごろに江戸城内の清水邸に着きました。
清水邸は御三卿の一つで、清水門内にありました。
現在でいうと、北の丸公園・日本武道館付近にあたります。