井伊直弼が13代彦根藩主となるまでの不遇の時期の17歳から32歳までの15年を過ごした屋敷が有名な「埋木舎(うもれぎのや)」 です。
今日は「埋木舎(うもれぎのや)」 について書いていきます。
【埋木舎】
埋木舎(うもれぎのや)は、彦根城佐和口御門に近い中堀に面した武家屋敷です。
埋木舎は元々尾末町屋敷とよばれていました。屋敷といっても中流以下の藩士の住宅にも等しい建物で、部屋数は20数間だったようです。
この屋敷が創建されたのは宝暦9年(1759年)頃と見られています。
この屋敷で、井伊直弼は、藩から300俵の宛行扶持を与えられ、世捨て人のように暮らしました。
【埋木舎は大久保氏所有】
この埋木舎の表玄関には「大久保」の表札が掲げられています。
これは、直弼の側近であった大久保小膳が、直弼の子供で最後の彦根藩主である直憲の養育を行い、明治維新に際し焼却するよう命令された藩文書を極秘に保存したことや彦根城天守閣の保存運動に功績があったため、埋木舎が大久保小膳に明治4年に与えられたことによります。
埋木舎は、現在も大久保小膳のご子孫大久保治男氏の個人所有の屋敷です。
大久保治男氏は現在東京にお住まいで、武蔵野学院大学の副学長をされています。
駒澤大学法学部長も勤められて駒澤大学名誉教授でもあります。ご専門は日本法制史です。
その大久保氏から、貴重なお話をうかがうことができましたのでご紹介します。
【大久保小膳の活躍】
まず、大久保氏の先祖について教えていただきました。
大久保氏のご先祖は、小田原城主の大久保忠世や大久保彦左衛門と呼ばれて有名な大久保忠教の従兄弟に当たる大久保忠正です。
大久保忠正は、徳川四天王の一人井伊直政を2歳から養育した縁で、家康の命により井伊家に仕え、代々家老や御側役等重職ををつとめてきました。
井伊直弼の時代には大久保小膳員好が直弼の御側役として仕えました。直弼の名代として、江戸、大坂、京都へ数多く訪れた側近中の側近でした。
そして、桜田門外の変の時には、正使として早駕籠で4日間で彦根に急を告げるとともに激昂する藩内の意見を抑え水戸藩との抗争を回避しました。
直弼の死後、大久保小膳は、直弼執政中の藩公文書を秘密裏に保存したり、廃藩後の彦根城天守閣の保存運動に尽力するなどの種々の功績があり、最後の彦根藩主である直憲から「埋木舎」を贈られました。
現在の大久保治男氏は大久保小膳から数えて5代目のご当主だそうです。
【井伊直弼は文化人、あだ名は「チャカポン」】
大久保氏は、井伊直弼については次のように仰っていました。
井伊直弼は、明治政府により悪人にされているが、実は文化人であり平和主義者であったことが知られていないですね。
直弼は埋木舎で文武両面の修養に力をそそいでいたのです。
兵学・剣術・槍術・居合術などの武術をはじめ国学・禅・茶道・能・和歌など学問や芸術面にも精通していました。
お茶は最初石州流を学び、一派をたてるまでになりました。和歌では、自作の和歌集を編纂したほどでした。
能は、槻(けやき)御殿時代から学んでいて、「筑摩江」という能を作成しましたし、井伊家のお抱えであった茂山千五郎家に与えた狂言「鬼ヶ宿」もあり、現在でも上演されます。
そこから、「チャカポン(茶・歌・鼓)」とあだ名されるほどでした。
直弼はこのような高い教養をもった人物であり、こうした面が取り上げられないの非常に残念です。
また、日米修好通商条約を結び開国したのは、戦争を回避するためであり、平和主義者、国際協調主義者であったのです。
それにもかかわらず、安政の大獄や違勅のことが取り上げられて悪い評価だけされているのは大変残念です。
このように仰っていました。
【埋木舎と井伊直弼】 大久保様から思いがけずこのような大変有意義なお話を聞くことができました。
大久保様大変ありがとうございました。
私たちも、安政の大獄や桜田門外の変だけで井伊直弼をとらえるのではなく、幅広くとらえてみる必要があると感じました。
なお、大久保氏は「埋木舎と井伊直弼」という本をサンライズ出版社から出されています。
埋木舎の歴史と井伊直弼が文化人であることがわかりやすく書かれていました。
井伊直弼に関心のある方に一読されるようお薦めします。