その前に、留魂録がどういう経緯で届けられたか書いてみます。
【牢名主の協力により届けられる】
「留魂録」は、松陰が処刑される前日の安政6年(1859)10月26日に書かれました。 そして、松陰から、牢名主の沼崎吉五郎に託されたものです。牢名主の吉崎吉五郎は、牢内で松陰の「孫子」「孟子」などの講義を聴くなど松陰を尊敬していたようです。
松陰処刑後、遺品ともに牢名主の沼崎吉五郎から、松陰の門下生の飯田正伯らに渡されました。
そして、飯田正伯から、萩の高杉晋作、久保清太郎、久坂玄随あてに送られたのです。
受け取った高杉晋作は、松陰の弟子ととしてきっとこの仇は討たずにはおかないと、周布政之助に手紙で書いているそうです。
上の写真は、小伝馬町牢屋敷跡の大安楽寺に建てられている「江戸伝馬町処刑場跡」の碑です。
さて、次の部分が、死について書いてある「留魂録」の中でもっとも重要な部分です。
死に臨んで、松陰が死というものをどうとらえているよくわかる部分です。
現在でも通用する考えが書かれていると言われています。
量が多いのですが、ぜひ読んでみてください。
【松陰の死生観】
「今日、私が死を目前にして、平安な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。
つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈りとり、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ちあふれるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるということを聞いたことがない。
私は30歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。
なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。
十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとすることで、いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した栗の実であるかは私の知るところではない。もし同士の諸君の仲に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。」