田安門は、東京メトロ「九段下」駅2番出口から徒歩2分です。
【田安台にあるので田安門】
田安門の辺りは,古くは「田安口」または「飯田口」ともいい,上州方面への道が通じていたといわれています。
門名の由来は、この辺りは、田安台と呼ばれていたため、田安門と名づけれたそうです。
また、現在は築土神社と呼ばれている田安大明神があったので門名に称としたといわれています。
江戸名所図会にも次のように書かれています。
「元飯田町九段坂の上、田安御門の辺りをいへり。東南の方を斜めに見下ろし佳景の地成なり。このところに築土明神の旧地あり。・・・ 築土明神、昔はこの地にありて、田安明神と称したるとなり。」
【田安門も重要文化財】
田安門は元和6年に、東北諸侯により構築されました。
そして寛永6年に松平忠昌により改造されました。
高麗門の扉の釣金具に製作に携わったと考えられる職人の名文があります。
それには、寛永13年と刻されているそうですが、この時に大工事をしたものと考えられています。
田安門も重要文化財です。
【牛ヶ淵と千鳥ヶ淵】
牛ヶ淵と千鳥ヶ淵の水位差を保つため、土橋として、枡形は右折枡形としています。
田安門の東側の濠は牛ヶ淵と言います。
この濠を造った時期ははっきりしませんが、文禄の頃に造られたようです。
その名称は、牛が落ちたからといわれているものは俗説で、濠の形から牛ヶ淵という名前がついたようです。
一方、西側の濠は千鳥ヶ淵と呼ばれています。千鳥が羽を広げた形からその名前が起こったと伝えられています。
今は、千鳥ヶ淵は、サクラの名所となっています。
【田安家】
田安門内には、御三卿の一つの田安家の屋敷がありました。
享保15年(1730)8代将軍吉宗は、次男宗武を分家させ、ここに田安家を興しました。
田安宗武は、賀茂真淵に師事し、国学の造形には深いものがありました。
松平定信は、宗武の七男で、のち、陸奥国白河藩松平家の養子となりました。
また、徳川宗家16代の徳川家達は、田安家から出て宗家を継ぎました。
現在田安門がある北の丸公園には,田安門から南北をつらぬくように西側一帯(現在、武道館の駐車場など)を田安家,東側一帯(武道館など)を清水家が所有していました。