今日は、「蕃書調所跡」と「滝沢馬琴宅跡の井戸」 の紹介をします。
【蕃書調書跡】
蕃書調所跡の説明板は、東京メトロ「九段下」駅4番出口のそば、交番所の裏側にあります。
ペリー来航により洋学の必要性を痛感した幕府は、天文方に置かれていた蛮書和解御用を拡充し、安政2年(1855)「洋学所」を開設しました。
これが開設直後の安政の大地震で全壊焼失したため、安政3年(1856)「蕃書調所」と改称し、新たに九段坂下に新築し、古賀謹一郎を頭取として開設しました。
その後、一旦小川町に移転された後に、文久2年(1862)に一ツ橋門外の「護持院ヶ原」(現在の神田錦町)の広大な敷地に移転しました。
同年、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったため「洋書調所」と改称、さらに、文久3年(1863)「開成所」と改称されました。
これが後の開成学校や東京大学南校をへて、現在の東京大学につながっています。
【都史跡 滝沢馬琴宅跡の井戸】
九段北交叉点を東に入ったマンションの中庭に、滝沢馬琴の旧居にあった「硯の井戸」が残されています。
東京メトロの「九段下」駅の7番出口からですと100メートル程のところにあります。
滝沢馬琴は、明和4年(1767)、深川で生まれました。
天明元年(1781年)、馬琴は叔父のもとで元服して興邦と名乗りました。この頃、兄の影響で始めていた俳諧の号として「馬琴」を使用しています。
寛政2年(1790年)、24歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りをお願いしましたが、山東京伝には弟子とすることは断わられますが、親しく出入りすることをゆるされました。
寛政4年(1792年)蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになりました。
写真は、「九段下北一丁目」交叉点の南東角に設置されている「馬琴 硯の井戸」と書いた案内板です。
【履物商に入り婿】
そして、寛政5年(1793年)、27歳の馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現在の千代田区九段北一丁目)の世継稲荷(現在の築土神社)近くで履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人の百(30歳)の婿となり、名を会田清右衛門と改めました。
【硯の井戸】
結婚は生活の安定のためでしたが、馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、大家をして生計を立てていました。
寛政7年(1795年)に義母が没すると、文筆業に打ち込むようになり、履物商もやめ、姓も滝沢に戻しました。
その時期に使用していたのが、「硯の井戸」です。
その後、文政7年(1824年)、58歳の馬琴は、神田明神下に住んでいた長男宗伯の家に、九段下の住まいから移り住みました。
【マンションが目印】
滝沢馬琴宅跡の井戸は、なかなか見つけにくい所にあります。それはマンションの中庭にあるからです。
左の写真がそのマンションで、そのマンション名は「東建ニューハイツ九段」です。
九段北一丁目交差点から東に100メートルほど入ったところにあります。
このマンションを見つけることがポイントです。
ピンクが滝沢馬琴宅跡の井戸、緑が蕃書調所跡、青が築土神社です。