上野戦争の概要は、別途、書こうと思いますが、勝海舟は上野戦争でも重要な役割を果たしました。
そこで、今日から、しばらく江戸検定今年のお題の「幕末」に関係する記事として「勝海舟」 について書いていきたいと思います そして、最後に上野戦争についてもみてみたいと思います。
左の写真は、隅田区役所に建っている勝海舟の銅像です。
桜が満開の中の凛凛しい姿に、思わず撮影しました。後ろの建物は隅田区役所、さらにその後ろが東京スカイツリーです。
勝海舟は旗本勝左衛門太郎小吉の長男として、文政6年(1823)に江戸で生まれました。
名を義邦、通称麟太郎といいます。
海舟は号で、佐久間象山からもらった額の「海舟書屋」からとったものです。 勝海舟の妹の順がに佐久間象山に嫁いだので、勝海舟は佐久間象山の義兄になります。
また、勝海舟は、山岡鉄舟、高橋泥舟と並んで「幕末の三舟」と呼ばれます。
下の写真は、「国立国会図書館」所蔵の勝海舟です。
【曽祖父は男谷検校】
海舟の父方の曽祖父の銀一(ろういち)は、越後国三島郡長鳥村(現在の柏崎市とも小千谷市とも言われています)の貧農の家に生まれた盲人でした。
江戸へ出て高利貸しで成功し巨万の富を得、検校の位を買い、男谷検校(または米山検校)を名乗りました。
そして、旗本男谷(おだに)家の株を買い取り、銀一の末子の平蔵に、男谷家を継がせました。
【父小吉が勝家の養子となる】
また、男谷平蔵の三男の小吉を男谷家から勝家に養子に出しました。勝小吉が海舟の父です。
勝家は小普請組という無役で小身の旗本です。
勝家は、近江国勝村の出と言われ、天正3年(1575)以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父に当たる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本になったようです。
【勝海舟生誕之碑】
勝海舟は文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町に生まれました。
小吉の実家の男谷家に小吉夫婦が同居していたため、男谷家で誕生しました。
小吉は乱暴者であったため、3年間男谷家の座敷牢に入れられていたと言います。その2年目に麟太郎が生まれたのでした。
男谷家の跡は現在両国公園となっていて、そこに「勝海舟生誕之碑」が建っています。
【勝海舟揺籃之地】
麟太郎が生まれてしばらくした後、勝小吉は、男谷家を出て、南割下水の天野右京、次いで山口鉄五郎の敷地に移った後、本所入江町の旗本岡野孫一郎の敷地に移りました。
本所での生活では、この入江町が一番長く、天保元年(1830)頃から弘化3年(1846)まで住み、地主の岡野とは深いつきあいになり、のちに海舟が妻をもらう時に、一度岡野の養女にしてから結婚しています。
ちなみに海舟は、23歳の時、弘化2年(1845)に結婚しています。妻の名は民子と言い、2歳年上で、深川の芸者だったそうです。そこで岡野孫一郎の娘ということにして結婚しました。
海舟が育った場所近くの坂田建設(墨田区緑4-21)の建物入り口に「勝海舟揺籃(ようらん)之地」の碑があります。