【貧乏の経験が後に役立つ】
海舟の幼少時、勝家は非常に貧乏でした。
そのため、勝海舟は、最下層の武士の生活を経験しました。また、町人たちと付き合う呼吸を侠気無頼の父小吉を通じてつかみました。
こうした経験があったため、下級武士出身の薩長の指導者を向こうに回しても、勝海舟は一歩もひけを取らなかったようです。
【一橋慶昌の遊び相手となる】
そんな貧乏生活の中でも、出世のチャンスがありました。
海舟は、文政12年(1829)の7歳の時に、男谷の親類の阿茶の局の紹介で、11代将軍家斉に気に入られ、孫の初之丞(徳川家慶の五男)の遊び相手として江戸城へ召されています。
その初之丞が一橋家を継いで一橋慶昌となったため、一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、慶昌が早世したため、その望みは消えてしましました。
【小吉、能勢妙見堂に日参】
9歳の時、海舟が、野良犬に急所を咬まれ大怪我をするという事件が起きました。
この時に、父親の小吉は、能勢妙見堂に日参し、回復を祈願しました。その甲斐があり、無事回復しました。
能勢妙見堂は、現在も墨田区本所4-6にあり、そこには、勝海舟の銅像が建てられています。
右写真は、能勢妙見堂の山門です。能勢妙見堂については、こちらをご覧ください。
【剣術修行】
海舟は、若い頃、剣術と蘭学の修行に力をいれました。
剣術については、よく知られているように、父親の小吉の本家で従兄弟(と多くの本が書いていますが、これについては異説があります)の男谷精一郎の道場で学びました。
男谷精一郎は、団野源四郎に剣を学び、弟子に島田虎之助、榊原健吉、天野八郎などがおり、後に講武所頭取並となった幕末有数の剣客です。
その後に精一郎の高弟である島田虎之助の道場で習い、21歳のときに直心影流の免許皆伝となります。
剣の修行は、向島の牛島神社で行ったそうです。海舟は王子権現といっているため、王子の王子神社と考える人もいるそうですが、正しくは向島の牛島神社です。
また、師匠の島田虎之助の勧めにより、向島の弘福寺で禅も学びました。
牛島神社については、こちらで紹介しています。また弘福寺もこちらで紹介してあります。
【蘭学修行】
一方、蘭学にも力を入れました。
蘭学は、箕作阮甫(みのつくりげんぽ)に弟子入りを願い出ましたが断られたので、赤坂溜池の福岡藩黒田家の屋敷内に住む永井青崖(せいがい)に弟子入りしました。
弘化3年(1846年)には、本所入江町から、永井青崖の塾近くの赤坂田町に住居も移しました。
この蘭学修行中に、海舟は日蘭辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写したそうです。
1部は自分が使用するために筆写し、もう1部は、それを売って、借り賃と生活費を工面するためでした。
海舟が筆写した『ドゥーフ・ハルマ』は、現在も残っているそうです。
【高野長英が来訪】
永井青崖の勧めもあり西洋兵学も修めました。
そして、赤坂田町に蘭学と兵法学の私塾を開きました。
海舟が開いた塾に、嘉永3年9月、高野長英が、勝海舟を訪ねてきました。
大いに時事について話をした後に匿ってもらいたいと頼まれますが、「余は幕臣なり、義、足下の請を容るる能わず」と海舟が断ったそうです。
また、高野長英は、帰るときに、自分で筆写して跋文(ばつぶん)を付した荻生徂徠の「軍法不審」を置いていったそうです。
右の高野長英の肖像画写真は、岩手県奥州市にある高野長英記念館が所蔵している「高野長英画像」です