山岡鉄舟との交渉を受けて、西郷隆盛は3月11日に駿府を発ち、12日に江戸の薩摩藩邸に入りました。そして、3月13日と14日に勝海舟と西郷との会見が行われました。
今日は、この両雄の会見について書いていきます。
【海舟の作戦】
海舟は、西郷ら新政府との交渉にあたって、「彼が進みに先んじ、市街を焼きて、その進軍を妨げ」る焦土作戦を考えていたと言われています。
そのために、江戸の町火消し「を組」の頭の新門辰五郎の協力を得たうえで、その他の火消し・博徒等の親分の所に四つ手駕籠に乗って訪問し、協力を依頼し、了解をとりつけていました。
しかし、これはあくまでも最終の策として考えられていました。
【海舟と西郷との会見】
江戸に到着した西郷隆盛と勝海舟との間で、第一回目の交渉が、13日に行われました。
一回目の交渉では挨拶をかわした後、和宮の処遇問題と、以前山岡に提示された慶喜の降伏条件の確認した程度で、突っ込んだ話は行われませんでした。
翌14日、第二回目の交渉が行われました。
第二回交渉では、勝から先般の降伏条件に対する回答が提示されました。
1.徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。
2.慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。
3.武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。
4.城内居住の者は、城外に移って謹慎する。
5.江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。
6.暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。
西郷が山岡に示した処分案と勝海舟が示した回答とは、相当ひらきがありました。
西郷の案は無条件降伏案ですが、海舟の回答は、条件付降伏案です。
14日は、海舟はひたすら嘆願につとめたと言われています。
西郷は自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約束しました。
そして、村田新八と桐野利秋を東海道・東山道先鋒総督府に派遣し翌日の江戸城総攻撃を中止するよう指示しました。
西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を飲み、総攻撃を中止した背景には、英国公使パークスからの圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったとする説があります。
【会見の場所】
二人が会談した薩摩屋敷がどこの薩摩屋敷であったかについては議論があるそうです。
海舟は日記に高輪薩州の藩邸と書いていて、下屋敷で会見したとしています。
その一方で海舟は芝田町の薩摩藩蔵屋敷とも書いているようです。
また、13日は下屋敷で、翌14日は蔵屋敷という説もあるようです。
さらには前年に焼き払われた三田の屋敷の片隅で会見したとの記録もあるそうです。
現在の「西郷南州・勝海舟会見の地」の記念碑は、芝田町の薩摩藩蔵屋敷跡に建っています。
そして、西郷は、16日に駿府に帰還し、大総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王に報告しました。
同時に、この日、江戸城進撃の延期が、東海道・東山道・北陸道の先鋒総督に伝えられました。
西郷は、徳川家の処分案を決定するため、京都へ向かい、20日に到着しました。
そして、ただちに朝議が開かれ、海舟の嘆願書を大幅にいれた処分案が決定されたのでした。