「三十六見附」については、田安門まで紹介しましたので、今日は 「半蔵門」 についてご案内します。
半蔵門は、東京メトロ半蔵門線の「半蔵門」駅3番出口から歩いて4分です。
【和田倉門の高麗門を移築】
半蔵門は、江戸城の西門として、古くは、国府方口と読んで、武蔵国の国府(現在の府中市)に通ずる道の起点でした。
半蔵門外は麹町ですが、麹町という地名は、国府路(こふじ)に由来しているという説もあります。
半蔵門は、元和6年に、東北の諸大名により建築されました。
太平洋戦争で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものです。櫓門はないそうです。
【服部半蔵が名前の由来】
半蔵門という名称は、当時の江戸城の警備を担当した服部半蔵正成に由来するといわれています。
服部半蔵の屋敷が門外にあったという説または門内にあったという説さらに半蔵の部下がこの門外に組屋敷を構えていたからなどと諸書によって違いますが、服部半蔵に関係する屋敷があったことが語源のようです。
さて、服部半蔵は、忍者のようにいわれますが、伊賀出身の父の代から、徳川家に仕えた譜代の武将で槍の名人でした。徳川十六神将の一人です。
天正10年(1582年)、信長の招きで家康が少数の供のみを連れて上方を旅行中に本能寺の変が起こります。このとき堺に滞在していた家康が甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に抜ける伊賀越えに際し、先祖の出自が伊賀である正成は、伊賀・甲賀の地元の土豪と交渉し、彼らに警護させて家康一行を安全に通行させ、伊勢から船で三河の岡崎まで護衛していきました。
伊賀・甲賀の土豪は、後に伊賀同心、甲賀同心として徳川幕府に仕えました。
なお、これ以前、家康が、信長の命令により、長男の信康に切腹させる時に介錯を命じられたのが服部半蔵です。
このことにより無常を感じた服部半蔵は、後に仏門に入り、お寺を建立します。
その寺が、四谷にある「西念寺」(上の写真)です。
くわしくは、以前に書いた 「服部半蔵と西念寺」 をご覧ください。
【半象という説は江戸っ子の駄洒落】
半蔵門の名の由来については、山王祭の張りぼての象が半分しか通らなかったから「半象門」だというのもありますが、どうやら江戸っ子の駄洒落のようです。
また、勝海舟が、慶応4年江戸城明け渡し後、半蔵門で官軍に狙撃されることがあり、落馬して気絶し、官軍の兵士は死んだものと思ってそのまま引き上げてので助かったということがあったそうです。
半蔵門の前は、写真のように土橋となっていて、北側の半蔵濠と南側の桜田濠をはっきりと遮断しています。