その中で、今日は「剣聖」と呼ばれた 「男谷精一郎信友」 について書いていきます。
【勝海舟の義理の従兄弟】
男谷信精一郎友は、寛政10年(1798)、男谷信連の子として生まれました。
20歳の時に同族の男谷彦四郎の婿養子となります。
彦四郎の父は男谷平蔵で、平蔵の長男が彦四郎で、三男が小吉すなわち勝海舟の父です。
従って、男谷精一郎と勝海舟は義理の従兄弟ということになります。
ただし、勝海舟が生まれたときに、男谷精一郎は25歳ですので、だいぶ年の差がある従兄弟ということになります。
勝海舟も剣術の指導を精一郎から受けています。
右の勝海舟の写真は国立国会図書館蔵
【他流試合を拒まない】
文化2年(1805)、8歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術12代の団野源之進(真帆斎)に入門し、さらに、平山行蔵に兵法を師事、他に宝蔵院流槍術も熟達した。
文政6年(1824)に麻布狸穴に道場を開き、31歳の時に直心影流13代を継承しました。
文政12年(1830)、男谷彦四郎の養子となりました。
他の流派の多くは、他流試合を禁じていましたが、男谷精一郎は積極的に他流試合を行いました。
精一郎は、申し込まれた試合は一度も拒まず、江戸府内に立ち合わなかった者はいないといわれるほどでした。
そして、試合では、どんな相手でも三本のうち一本をとらせ、相手に花を持たせました。
その性格はきわめて温厚であり、門弟や女中達にも平等に、穏やかに接する人物でもあったそうです。
また、実力もすごく、作家の直木三十五は、史上最強の剣豪に新陰流の祖である上泉伊勢守をあげ、第二位に男谷精一郎が挙げています。
こうした人間性と実力の高さと合わせて「幕末の剣聖」と呼ばれました。
作家の中里介山や心母澤寛も、幕末の剣客の第一人者は男谷精一郎であると言っているそうです。
右写真は男谷家があったと言われている「両国公園」です。
【講武所で活躍】
安政2年(1855)、講武所が開設されました。講武所の開設は、水野忠邦の時代から、精一郎が度々建議をしてきたものでした。 精一郎は講武所頭取並となり、剣術師範役を兼務しました。
文久2年(1862)には、下総守に叙任、講武所奉行となって禄高3000石を与えられ、文久3年(1863)の将軍徳川家茂の上洛に際して旗奉行を兼ねました。
そして、その翌年元治元年(1864)67歳でなくなりました。
【有名な弟子たち】
精一郎の門弟には、勝海舟の剣の師匠となる島田虎之助、兜割りで有名な榊原鍵吉、彰義隊の中心人物となる天野八郎などがいました、