今日は、火付盗賊改という仕事について書いてみます。
【火付盗賊改は、元は火付改と盗賊改】
火付盗賊改は、最初は、火付改、盗賊改、博打改とそれぞれが別個の役職でした。
まず、「盗賊改」を寛文5年(1665)に設置しました。
その後天和3年(1683)に「火付改」が設置されました。
元禄12年(1699)には盗賊改と火付改は廃止され、両職が所管していた仕事は、寺社奉行、勘定奉行、町奉行の管轄になりました。
しかし、元禄15年(1702)に盗賊改が復活し、博打改が加わりました。翌年には、火付改が復活しました。
宝永6年(1709)に、盗賊改と火付改は「火付盗賊改」に一本化されて、享保3年(1718)には、博打改も兼任することになりました。
幕末の文久2年(1862)には先手頭兼任から独立しました。
右写真は、都営地下鉄「本所」駅近くの歯科医院の前に建っている長谷川平蔵の旧居跡のモニュメントです。お屋敷の東南隅にあたるそうです。
ここの屋敷は長谷川平蔵の孫の代に、遠山金四郎の屋敷になっています。
【火付盗賊改の本役・助役とは】
火付盗賊改には、本役、助役、増役があります。
助役は火災などが多い10月から翌年3月まで増員して本役を助けることです。
長谷川平蔵が、最初に命じられたのも助役です。
増役は、本役や助役だけで人数が不足するときに御先手組から短期の間、増員して手助けすることです。
【火付盗賊改と町奉行の関係】
火付盗賊改は本来犯人の捜査と逮捕に従事すべきもので、逮捕した犯人は、これを町奉行へ引き渡し、裁判は町奉行においてこれを行うべきものでした。
しかし、後には、犯人を引き渡すことなく、火付盗賊改の裁判が確定判決となって刑が執行されるに至りました。
こうなっては、全くの二重組織であって、町奉行所と火付盗賊改の裁判ができてしまいました。
従って、火付盗賊改の屋敷には、白州、仮牢が設けられ、裁判所の体裁を整えるに至りました。
町方与力は世襲ですから、いずれも審理の専門家でその訊問は堂に入ったものです。
拷問などは殆ど用いず犯人に泥を吐かせる術を心得ています。
ところが、火付盗賊改の方は本来が武人ですから、やることが泥臭く、何かといえば拷問を用いたようです。
【自分の屋敷が役所となる】
火付盗賊改に付いた与力は10人、同心30人ですが、時期によりそれを超える場合もありました。長谷川平蔵の後任の森山孝盛の例では同心40人だそうです。
これら与力同心をどう配置したか森山孝盛の場合が、「徳川禁令考」に載っています。
それによると、与力は役所詰与力3人、召捕方廻り与力7人となっています。
召捕方廻り与力が最も重要な役で、同心1人をつれて、江戸市中を巡邏しました。
火付盗賊改自らが巡邏するのは、長谷川平蔵の頃までだったそうです。
火付盗賊改の決められた役所は無く、先手組頭などの役宅を臨時の役所として利用しました。
従って、長谷川平蔵の本所の屋敷には、白州、仮牢、訴所、腰掛まで設けられ、小さいながら裁判所の体裁を整えていたようです。
右写真は、都営地下鉄「菊川」駅出口にある長谷川平蔵の旧居跡の説明板です。
お屋敷の北西隅に建てられているそうです。 ここで、長谷川平蔵が容疑者の取り調べをしたのですね。