その孝明天皇が、突然、崩御されました。今日の松平容保は、この孝明天皇崩御について書いていきます。
【公武合体派の天皇は倒幕に反対】
孝明天皇は、攘夷主義者でしたが、朝廷と幕府がともに協力しあうべきであるとする公武合体論の立場から、深く幕府を信頼し、倒幕の考えはまったくありませんでした。
しかし、朝廷では、第2次長州征伐が幕府軍の敗北に終わったのをきっかけに、尊攘派公家を朝廷に復帰させるべきであるという声が大きくなってきました。
こうした中で、追放されている公家の復帰・朝政の改革など国事につき建言するため、大原重徳を中心とした公家22名が朝廷に押しかける騒擾事件である廷臣二十二卿列参事件(ていしんにじゅうにきょう れっさんじけん)が発生します。
しかし、天皇はこれを退け、逆に22名に対して謹慎等の処分を下し、変わらぬ信頼を幕府に寄せました。
【孝明天皇崩御】
こうした中で、孝明天皇が、突然、慶応2年(1867)12月25日、在位21年にして崩御されました。
享年35歳でした。死因は天然痘と診断されました。
慶応2年(1867)12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌12日に発熱し、投薬したが、翌日になっても病状が好転しませんでした。
12月16日、改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)にかかっている可能性が高くなりました。
松平容保は、すぐ御所にかけつけお見舞いを申し上げました。
17日には武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表しました。
それ以後、24時間体制での治療により、順調に回復しているかに見えました。
しかし、12月25日になって、天皇が痰がひどくなり、医師たちも御所に昼夜詰めきりでしたが、25日午後11時過ぎに崩御されました。
天皇の崩御が公にされたのは29日になってからのことでした。
右の写真は、 「長崎大学附属図書館所蔵」の幕末もしくは明治の京都御所です。
【会津藩の悲運】
孝明天皇崩御により、容保は頼るべきところを失い、茫然自失となり、10日ほど床につきました。
慶応3年 正月27日、孝明天皇の大葬が執り行われ、容保は、病をおして参列しました。
大葬が終わり、容保は虚脱状態になりました。
容保は、今度こそ辞職すると、辞意を重ねて表明しました。
ここで辞意が認められれば、戊辰戦争の会津藩の悲劇はなかったかもしれません。
それに対して、今回も、引きとめ工作が盛んにおこなわれました。
だが、容保の辞意は固く、今度こそ帰るという意思でした。
しかし、朝廷からの参議昇任の沙汰や「幼帝の意思」が伝えられました。そして、最後は、慶喜から「宗家とともに盛衰をともにし、留まってほしい」といわれ京都に留まることとなります。
容保と会津藩は、またも藩祖保科正之の遺訓に立ち戻ることとなったのでした。
会津藩の悲運は、この時に決まったことになるかもしれません。
容保と会津藩士は複雑な思いをもって、京都に留まることになります。
【孝明天皇暗殺説】
孝明天皇は、大変壮健でした。その天皇が35歳の若さであえなく崩御してしまったことから、崩御直後からその死因に対する疑問がだされ、暗殺説が消えていません。
佐伯理一郎やねずまさしによるヒ素による毒殺説が有力です。両氏は岩倉具視首謀・堀河紀子(岩倉具視の妹)実行説を唱えています。
しかし、これに反対する原口清氏の病死説もかなり有力のようです。