松平春嶽は、将軍継嗣問題において、一橋派の中心人物というより総帥として、一橋慶喜擁立運動を主導して推進し、幕府内や有志大名の間、さらには朝廷に対して強力な働きかけを行いました。
【将軍継嗣問題の解決は自分の使命と考えた】
13代将軍家定は、虚弱で凡庸で癇癖が強く、政務遂行能力がなく、子供もいなかったことから、家定が嘉永6年に将軍になるや、早くも世継ぎ選定の議が幕府内外に起こりました。
越前家はご家門として、事あれば徳川将軍家の支持・擁護に全力を尽くす立場にありました。
御三家・御三卿の当主は、将軍継嗣の候補の当事者であるため、擁立工作に加わることは好ましくありません。
そのため、御三家・御三卿を除いて、将軍家にもっとも近い家門第一の名門越前松平家の当主すなわち春嶽が、将軍継嗣問題を解決すべき使命があると春嶽は考えていました。
【御三家・御三卿の状況】
将軍家定の継嗣は、当然御三家・御三卿から求めなければなりません。
安政4年の御三家・御三卿の藩主・当主を見てみると次のような状況でした。
①尾張家は尾張藩の支藩高須家生まれの慶恕(よしくみ)が入って藩主となりましたが、将軍家とは血脈が遠く、年齢も34歳で将軍家定と同じ年齢でした。
②紀伊藩主の慶福は、将軍家定と従兄弟で血縁は一番近いのですが、年齢は8歳でした。
③水戸藩主慶篤は人格・才幹についてとかくの批判がありました。
④田安家の当主慶頼にも政治家として問題がありました。
⑤清水家には当主がいません。
⑥一橋家当主の慶喜は水戸家出身ですが、英明の誉れが高く人望がありました。
【一橋慶喜擁立に動く】
こうして比較すると、一橋慶喜が将軍継嗣として最もふさわしいということになります。
また、春嶽の生家田安家と一橋家との間には数代にわたっての緊密な関係がありました。
そこで、春嶽は、嘉永6年に、老中阿部正弘に対して働きかけを始めています。
また、薩摩藩主島津斉彬とも相談しており、島津斉彬は春嶽と同じ立場でした。
安政3年(1856)11月に篤姫が第13代将軍・徳川家定の正室となったのは将軍継嗣問題で慶喜擁立を家定に直接働きかけるねらいがあったということは有名な話しです。
そして、春嶽は安政4年初秋には、老中久世広周・堀田正睦・松平忠固に対して所信をのべて協力を求め、安政4年10月には、蜂須賀斉祐と連署して慶喜擁立の建議書を提出しています。
右の徳川慶喜の写真は国立国会図書館蔵です。
一橋慶喜擁立の総帥は春嶽です。そして阿部正弘、島津斉彬、山内容堂、伊達宗城らの雄藩連合派の大名が支持しました。また、幕府の役人では、川路聖謨( としあきら)、土岐頼旨、永井尚志(なおむね)、鵜殿長鋭(ながとし)、岩瀬忠震(ただなり)、堀利煕(としひろ)、水野忠篤らの開明的な俊秀が賛同しました。
このように、春嶽は、一橋慶喜擁立のために誰からか働きかけられたわけではなく、自ら一橋派の中心となって動いています。
しかしながら、同志の阿部正弘や島津斉彬がなくなり、守旧的な幕府内部の雰囲気や大奥の水戸嫌いの空気が強い中で、なかなか思うとおりに進みませんでした。
そうした中で、春嶽を支えたのが、橋本左内です。
明日は、橋本左内について書いていきます。