【左内は最適の補佐役】
春嶽は、継嗣問題を好転させるために橋本左内を越前から急いで出府させました。
橋本左内は、先祖代々25石5人扶持の藩医の長男として生まれ、名は綱紀(つなのり)、号は景岳、黎園(れいえん)と言います。左内は通称です。
18歳の時に、大阪に遊学し緒方洪庵に蘭学・西洋医学を学びました。
安政元年江戸に赴いて英語・ドイツ語のほか物理・化学の知識も吸収しています。
この時に藤田東湖や西郷隆盛らとも交際し内外情勢への識見を深めています。
安政2年には藩医を免じられて御書院番に登用され、藩校明道館学監に任じられて洋学習学所を設置するなどの成果を挙げていました。
その橋本左内が、春嶽を補佐するもっとも適任者とされたのでした。
そこで、同年江戸に呼ばれて藩主松平慶永の侍読兼内用掛となり、一橋慶喜を擁する将軍継嗣運動に携わりました。
右の橋本左内の写真は国立国会図書館蔵です。
【左内は春嶽のブレーン】
橋本左内の重要なことは、一橋慶喜擁立についての理論構築を担ったことでした。
橋本左内は、名目上の将軍のもと、一部の譜代大名出身の老中が独占する古い政治を大きく変えて、これまで圏外に置かれていた親藩・外様の名君たちを中央の政治に参加させて、英知を結集して外圧の危機に対応するとともに、開国後の日本の針路を定めようと考えました。
そして、その改革を行う前提として、新体制の頂点に万機を親裁できる将軍を位置づけることが不可欠であり、そこに英明の慶喜を将軍継嗣として座ることにより、徳川の天下を再強化することを通しながら現状打開の道をさぐろうと考えました。
また、積極的に開国してロシアと攻守同盟を結び、外国貿易を盛んにして富国強兵を実現しようとも考えていました。この時代に、ロシアとの同盟を考えるなど非常に先進的な考えを持っていました
【左内は京都でも活躍】
この頃、条約勅許問題も重大な局面を迎えていました。
アメリカ領事ハリスとの通商交渉に対応していた堀田正睦は、将軍に謁見したハリスとの会談により通商条約締結を決意し、諸大名に諮問を行うとともに、通商条約の勅許によって諸大名の反対を抑えようとしました。 正睦は上洛し条約勅許を得ようとしますが、朝廷の態度は固く、勅許は得られず、事態は暗礁に乗り上げてしまいました。
そうした時期に、春嶽は橋本左内を上京させました。その任務は、堀田正睦を側面から援助するとともに朝廷側に慶喜継嗣の急務を説いて、慶喜を望む旨の天皇の内勅を幕府に下させるようにすることにありました。
そして、京都における活動の結果、慶喜を名指しした内勅が降下されるような状況までこぎつけました。
しかし、長野主膳の運動により、最終的には、慶喜の名前もなく、さらに「英傑・人望・年長」の三要件も削除された勅書になってしまいました。
ここに、春嶽・左内の目的は完敗という結果に終わってしまいます。
さらに、井伊直弼の大老就任により、一橋派が破れ、慶喜擁立に関わった人たちが安政の大獄で処罰されるなかで、橋本左内も安政5年に捕らえられ、翌年10月7日小伝馬町牢屋敷で斬首されることになります。
その話は後日改めて書いてみたいと思います。