安政5年6月19日、直弼は勅許を経ぬまま日米修好通商条約の調印を強行し、そのことを宿次奉書で朝廷に報告しました。
そして、21日には老中堀田正睦・松平忠固を罷免、代わって間部詮勝、太田資始、松平乗全を新しく老中に任命しました。この幕閣改造は、違勅調印の責任を堀田正睦に、宿次奉書による朝廷への報告の責任を松平忠固に負わせたものです。しかしそれだけでなく、内実は一橋派に理解を示す正睦と忠固を追放し、幕権擁護派によって老中の体制を固めたものでした。
【慶喜、直弼を面詰】
この無断調印に怒った一橋慶喜は、6月23日、登城し直弼と初めて面談し、違勅調印と宿次奉書について直弼を責め立てました。
これに対して直弼は柔軟な態度で「恐れ入りました」とひたすら平身低頭を繰り返して、慶喜の追及を老獪にはずしました。
直弼が将軍継嗣について、紀伊の慶福に内定したといったのに対して、慶喜はフフンとすげない返答をして会談は終わりました。
【春嶽は、井伊邸で直弼を面詰】
24日朝に春嶽は井伊邸を訪問し直弼と面談しました。春嶽が遺勅と宿次奉書について詰問すると、直弼はいずれ自分が上京して朝廷に対して弁疎する旨を答えました。
また、将軍継嗣問題については平行線でした。直弼は将軍継嗣のことはすでに朝廷にはお伺い済みで、明日25日に発表の予定であるといいました。
春嶽は、継嗣の発表を何としてでも延期させようとして、京都に名指ししてお伺いしてないのであれば、慶福の継嗣の発表は意外に思うし無断調印が問題になっているこの時期に継嗣の発表を同時に行えば朝廷の意向に背くことになる。条約の件が決着をしたところで、継嗣の発表を行うべきであると詰め寄りました。
これに対して直弼は既に明日発表すると決定しているのでいまさら変更できないと反論します。
そして、もう登城の時刻なので今日はこれまでと断って座をたとうとするので、春嶽は直弼の袴の裾をつかんで、登城の時刻といっても今話したことは明日に迫ったことであるので、自分も登城して、お城で討論したいと言ったところ直弼はそれはご自由にどうぞ、今は議論できないといって振り払って部屋を出ていってしましました。
右上の写真は、憲政記念館脇の庭にある「この地の由来」碑です。
【斉昭・慶篤・慶恕は、不時登城で直弼を面詰】
同じ日、水戸の徳川斉昭・慶篤親子は、水戸邸に斉昭を訪ねてきた尾張藩主徳川慶恕と共に押しかけ登城しました。なお、春嶽は井伊邸での面談のあと登城しました。
本来の登城日でもないのに登城することは当時は異例のことでした。これを当時の言葉で「不時登城」といいました。
斉昭たちは5時間も待たされ昼食も提供されませんでした。
この間、御三家は大廊下下の部屋で、「今日は直弼に腹を切らさなくては退出しない」と大声でののしっていました。
間部詮勝が自分たち老中が斉昭らに面会するので井伊直弼はお会いなさらないようにといったが、直弼は大老の重責にあるものが責任を回避するわけにはいかないととして自ら進んで老中たちと面接しました。
直弼は周到に準備して無断調印せざるをえない事情を説明し斉昭たちの批判を受け入れませんでした。
これに対して斉昭は春嶽を同席するよう要求しますが、直弼は越前家の格式をたてに同席を拒否します。
上の春嶽の写真は国立国会図書館蔵です。
こうして松平春嶽、徳川斉昭、徳川慶恕、徳川慶篤らの不時登城は、直弼等の老獪な応対の前に何の成果も得られませんでした。
そして、翌6月25日、直弼は一橋派の機先を制して、紀伊慶福の将軍継嗣決定を発表しました。
6年間にわたる春嶽の将軍継嗣への慶喜擁立運動は水泡に帰してしまいました。
その後、まもなく、定例日以外の日に突如登城し、大老や老中を面詰して江戸城内を騒がせた不始末を問われる結果を招くことになります。
そのお話は次回です。