約5年間謹慎していた松平春嶽が活躍する場がまたできました。
政治総裁職に就任したのでした。
【久光、春嶽の大老就任要請】
安政の大獄を行った井伊大老は、安政7年3月3日に桜田門外の変で暗殺されます。
その後にできた久世広周と安藤信正による公武合体政策が進められていきます。しかし、その中心であった安藤信正が坂下門外の変で失脚します。
そうした頃、薩摩の島津久光が、1000人の藩兵と率いて上京します。そして、改革趣意書9箇条を朝廷に提出し、松平春嶽の政治総裁就任、一橋慶喜の将軍後見職を含む朝廷による一連の幕政改革を建議したのです。
久光は、基本的には公武合体的思想の持ち主で、兄斉彬の遺志を承継して、雄藩連合で幕府を動かすのが妥当と考え、朝廷を利用してその方向に幕府政治を動かそうと考えて動き出したのです。したがって、幕府そのものを倒そうなどとは考えていませんでした。
右の島津久光の写真は国立国会図書館所蔵です。
【御威勢大老職よりも超越せり】
朝廷では大原重徳(しげとみ)を勅使に任命し、久光にその警護を命じました。そのため、島津久光も勅使とともに東海道を下りました。
勅使大原と島津久光は6月7日に江戸に到着し、10日に将軍家茂に面会し、①将軍の上洛、②一橋慶喜を将軍後継職に、松平春嶽を大老に、それぞれ就任させることなどを求めました。 幕府側には反発はあったものの受け入れざるをえず、、7月6日に一橋慶喜に改めて一橋家を相続させた上で将軍家後見職としました。 そして、翌7月9日に春嶽は政治総裁職に就任します。
春嶽が大老にならず、新たに政治総裁という職を作ったのは、大老という職は井伊家など家臣の家柄の者が就任する役職であり、春嶽は将軍家の一門であったため大老職に就くのは不都合がああたため、政治総裁職というポストを新たに創り、それに就任することにしました。
春嶽のあつかいは格別でした。
「御登城往来は是までの通り、御玄関にて殿中御徒目付御先払い、御城内および見付け見付け惣下座往来留にて御威勢大老職よりも超越せり」と中根雪江が書いています。