【ヒュースケンはオランダ人】
ヒュースケンは、アメリカ人と思われがちですが、1832年1月20日アムステルダムに生まれたオランダ人です。
アムステルダムに生まれた後に家族とともに米国に渡り帰化したのでアメリカ人で間違いとはいえませんが・・・
当時、日本人はほとんど英語は理解しませんでしたので、オランダ語と英語が話せる通訳を求めていたハリスに雇われて、ペナンでと合流した後、安政3年(1856)8月下田に着任しました。
そしてハリスの片腕として困難な日米間の折衝に活躍し、ハリスが重病で倒れたときは彼の代理として幕府側と直接交渉も行い、日米修好通商条約締結に貢献しました。
麻布善福寺に公使館が開設されると善福寺に移りました。
そして、オランダ語、英語、フランス語に加えて日本語を修得していたことから、各国の使節の幕府との交渉に協力し、プロシアの交渉には通訳として協力しました。
右上の写真は光林寺の山門です。
【中之橋で襲われる】
そして、万延元年(1861)12月4日にプロシア使節の宿舎であった赤羽接遇所から、宿舎の善福寺へ帰える途中、古川の「中之橋」付近で攘夷派の薩摩藩士、伊牟田尚平(いむたしょうへい)らに襲われ、翌日死去しました。28歳という若さでした。
なお伊牟田尚平は清川八郎が中心となって結成した虎尾の会のメンバーでした。
この事件により、清河八郎も幕府から監視されることになります。
詳しくは 回天の魁士清河八郎 をご覧ください。
幕府はヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払って事件を決着させました。
【ヒュースケンは光林寺にねむる】
ヒュースケンの墓のある光林寺は臨済宗のお寺で、延宝6年(1678)に麻布市兵衛町に建立され、元禄7年(1694)に現在地に移転しました。
善福寺は土葬が禁じられていたため、キリスト教徒のヒュースケンは、土葬が可能な光林寺に埋葬されました。
葬儀は12月8日に行われました。その葬列は、幕府の外国奉行・5ヶ国の弔旗・アメリカの国旗で被われたヒュースケンの柩、各国の公使領事、プロシアの軍楽隊・護衛の海兵隊などからなり、アメリカ公使館であった善福寺から光林寺までの沿道は大勢の群衆であふれたといいます。
光林寺へは東京メトロ「広尾」駅1番出口から歩いて約10分です。
【赤羽接遇所】
赤羽接遇所は、安政6年(1859)8月に講武所付属調練所であった場所に、外国人宿泊施設として造られました。敷地面積は2856坪ありました。
プロシアの使節オイレンブルグは万延元年(1860)7月に来日直後ここを宿舎としました。
そして万延元年(1861)12月14日に日普修交通商条約が調印されたのも赤羽接遇所でした。
ここには再来日したシーボルトが、文久元年(1861)に長男のアレクサンダーとともに滞在したこともあります。
現在は「飯倉公園」となっています。