千駄木:駒込地区は次のようにまわりました。
須藤公園→観潮楼(森鴎外旧居)跡→千駄木ふれあいの杜→駒込大観音→養源寺→高林寺→目赤不動尊→吉祥寺 です。
【須藤公園】
須藤公園は、江戸時代の加賀藩の支藩の大聖寺藩(十万石)の下屋敷があった跡です。
明治になって、長州出身の政治家品川弥二郎の邸宅となり、明治22年に実業家須藤吉左衛門が買い取りました。昭和8年に 須藤家が公園用地として東京市に寄付し、昭和25年に文京区に移管されたものです。
説明を聞いている参加者の後ろ側の藤棚はかなり大きくシーズンには見事な花を咲かせるそうです。
【観潮楼跡】
観潮楼は、森鴎外が明治25年から大正11年7月9日60歳で亡くなるまで30年間住んでいた家です。
森鴎外は、「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」「阿部一族」「山椒大夫」「高瀬舟」などの代表作のほとんどをここで書いています。
本郷図書館鴎外記念室となっていましたが、現在は休館中です。ここに(仮称)森鴎外記念館を建ててる予定だそうです。庭園も開放さていないないので、「藪下通り」に面した所に残っている「観潮楼の玄関の門柱の礎石と敷石」と外からでも見える「三人冗語の石」を見てきました。
写真は、礎石と敷石を見ながら説明を聞く参加者たちです。
【目赤不動尊(南国寺)】
南谷寺は五色不動尊のうちの目赤不動尊があります。
本堂に向かって参道の左手にあります。
目赤不動尊は、もともと赤目不動と呼ばれていましたが、3代将軍家光により「目赤不動」と変えるように言われて目赤不動と呼ばれようになったそうです。
五色不動尊とは目赤不動尊の他、次のお不動様を言います。
目黄不動尊 平井最勝寺と三ノ輪永久寺
目白不動尊 目白金乗院
目青不動尊 世田谷教学院
目黒不動尊 目黒龍泉寺
この中で五色不動尊の中で、なぜ目黄不動尊は2つあるのかということが議論になりました。
五色不動尊については過去にブログで書いていますので、「五色不動尊(1)」 「五色不動尊(2)」 (目赤不動尊はここで書いています)「五色不動尊(3)」 をご覧ください。
【吉祥寺】
吉祥寺は,太田道灌が江戸城を築いた際に,井戸から「吉祥」と書かれた金印が発見されたので、現在の和田倉門内に庵を建てて祀ったのが始まりといわれています。
天正19年(1591)には現在の水道橋一帯に移転しました。
明暦3年(1657)に起きた江戸最大の大火である明歴の大火により吉祥寺は全焼してしまいました。
幕府は火災後の江戸復興を兼ねた大がかりな都市計画事業を展開します。これに従って吉祥寺は現在の駒込に移転しました。
中央線の駅名にある吉祥寺の町名は,この吉祥寺が移転移転した際に,吉祥寺の門前町が寺とは別の武蔵野に移住させられて,新しく町が作られたたことに由来します。
吉祥寺は昭和20年の東京大空襲により,山門,経堂を除いてことごとく焼けてしまいました。
本堂,書院,庫裏などが再建されたのは昭和39年です。
写真は、空襲で焼け残った経蔵と山門の前で説明を聞く参加者たちです。
経蔵は文化元年(1804)建立、山門は 享和2年(1802)建立です。