江戸城の天守は、家康によって慶長12年(1607)に建てられた慶長度天守、秀忠によって元和8年(1622)に建てられた元和度天守、家光によって寛永15年(1638)に建てられた寛永度天守と3度築かれています。
それぞれについて簡単に説明します。
ところで、天守閣と言いますが、西ヶ谷恭弘氏の「江戸城その全容と歴史」によると、「天主とは信長の安土城のみ使用し、秀吉以降は天守と記すのが一般的である。閣の字がつくのは明治40年代の岐阜城復興と昭和7年大坂城天守閣復興以降に広まり、本来は閣の字は付かない」ということですので、ここでも天守と書きます。
【慶長の初代天守】
まず最初に、徳川家康が慶長12年(1607)に天守閣を築きました。
この天守の天守台は、前年に築かれました。
天守の位置は現在の天守台より南によった本丸中央にありました。
この天守の壁は白壁とし、屋根瓦は鉛瓦としたため真っ白な天守だったそうです。
そのため、江戸っ子は雪をいただいた富士山のようだともてはやしたそうです。
この天守閣は秀忠によって解体され、新たな天守閣が造られています。
造り直しの動機は御殿の拡張が必要となったためと言われています。
【元和(2代目)の天守】
次いで、徳川秀忠によって、元和度天守が築かれました。
元和度天守は元和8年(1622)から翌年にかけて天守台と天守閣が共に建築されました。
位置は、寛永度天守と同じ位置とされています。ということは、現在の天守台がある場所に建てられていたことになります。
天守は5層5階(地階1階を含めると6階)で史上最大の天守台でした。
元和度の天守も秀忠の死後に家光によって解体され造り直されています。
【寛永(3代目)の天守】
寛永度天守は寛永13年(1636年)から翌年にかけて天守台と天守閣が完成しました。
天守台は黒田忠之・浅野光晟が築きました。 石は伊豆産の安山岩です。安山岩は黒っぽい色をしています。
小天守台が設けられましたが、小天守は建てられていません。
構造は5層5階(地階を含めれば6階)で、壁面には表面加工が施された銅板を張り、屋根はは銅瓦葺でした。
高さは、石垣が約13メートル、天守本体が約45メートル、総体で約58メートルもあり、下総(現在の千葉県・茨城県)からも眺望ができたといいます。
しかし、この天守は、明暦3年(1657)に起きた史上最大の大火である明暦の大火で焼失してしまいました。
天守の壁は銅板が張られていて、屋根も銅瓦でしたので、耐火性に強い天守でしたが、どういう訳かわかりませんが二重目の銅窓が開いていたため、そこから天守内に炎が入り焼失してしまったようです。
焼失後、ただちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が万治元年(1658)に前田綱紀によって築かれました。
しかし、天守については計画図も作成されましたが、3代将軍家光の異母弟で4代将軍家綱の補佐役をしていた会津藩主保科正之の「天守はもう要害としての役割をはたさない、ただ展望のみ行うは無用の長物」という意見により建築は中止されました。
その後に正徳2年(1712)新井白石らにより再建が計画され図面も作成されましたが、白石の失脚によりこれも実現しませんでした。
こうしてついに天守は再建されずに、富士見櫓が天守の役割を果たしました。