今日は汐見坂周辺についてご案内します。
【汐見坂】
本丸と二の丸の境には、江戸時代始めには堀があり、本丸と隔てられていましたが、明暦の大火の後、本丸の拡張工事の際、堀が一部埋め立てられて汐見坂が作られました。
徳川家康が江戸城に入城したころは、今の日比谷辺りまで海でした。
そのため、現在では埋立てやビルにさえぎられて海は見えなくなってしまっていますが、かつては坂の上から海が望めましたので汐見坂と名前がつけられました。
もちろん今ではビルしか見えません。なお、都内の各所からもかつては海が見えたようで、他にも「汐見」や「潮見」の名前が残っています。
汐見坂は非常に急な坂です。
汐見坂の下に幕末には冠木門があり、坂の上には渡櫓門がありました。
【白鳥堀】
汐見坂の脇にある堀は「はくちょうぼり」といいます。 江戸時代はじめの江戸城では、本丸と東側の二の丸との間には掘が南北に造られていました。
しかし、明暦の大火後の本丸の拡張に伴い、白鳥堀の部分を除き堀の大部分が埋め立てられました。
家光が最初に造営した二の丸御殿では、白鳥堀の中に能舞台が造られていて、御殿から能を鑑賞することができました。
白鳥堀には「財宝伝説」があるそうです。それは、明暦の大火の際に、本丸から金銀財宝を放り込んだのに違いないという伝説だそうです。
また、この白鳥堀は独立した堀となっていて、水が流れ込む流路がありません。しかし、堀には豊かな水量があります。この堀の水源はほとんどが湧き水だそうです。
上の写真は、台所前三重櫓であったところに設置されている展望台から撮ったものです。
奥の坂が汐見坂です。
【汐見坂脇の石垣】
梅林坂と汐見坂の間の石垣は、平成14年から平成17年にかけて修復されました。
この石垣の下からは、紅葉山に移転した東照宮の遺構が見つかり、また明暦の大火の際の大量のがれきも見つかりました。
ここにあった東照宮は、元和4年(1618)に紅葉山に創建された東照宮が本丸天守台下に分祀され、さらに寛永14年(1637)にここに移されたものです。
また、寛永20年の二の丸御殿造営の時にも北東の位置に東照宮が造営されていて、一時期江戸城には3つの東照宮がありました。
これらは、貞応3年(1654)に紅葉山東照宮が造り変えるときに統合されて、再び一か所となりました。
ここの石垣も火災などで傷んだものは新しい石と交換されました。
石材は昔と同じ東伊豆産の安山岩を使っていますが、長年の風雨にさらされたものと新しい石材とはやはり表面の色が異なり、取り替えた方が白っぽくなっています。
白い交換された石は汐見坂の側に多くなっています。これは火災などで焼けて傷んだ石が汐見坂の側に多かったためのようです。