先日、浅草に行ってきました。浅草は、今や世界からの観光客が訪ねる場所となっています。それでも、浅草は、江戸のふるさとでもあります。
そこで、今日からは、浅草寺を順にご案内したいと思います。
最初に、 駒形堂 を紹介します。
浅草寺にいく方で駒形堂まで訪ねる人は数少ないと思いますが、今日は、駒形堂からご案内を始めたいと思います。
【駒形堂は、観音様上陸の地に建つ】
駒形堂は、、浅草寺の草創ゆかりの地に建つお堂です。
浅草寺は飛鳥時代の推古天皇36年(628)3月18日の朝、隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の投網に仏像がかかりました。二人はこれは尊いものに違いないと考え、仏像とともに陸に上がりました。それが駒形の地です。
この像を拝した郷司の土師中知(はじのなかとも)は観音菩薩像と知り、出家し自宅を寺に改めて供養しました。これが浅草寺のはじまりです。
駒形堂は、浅草の観音さまが上陸された場所に建てられているといいます。
天慶5年(942)平公雅が堂塔伽藍を建立の際、駒形堂も建立され、はじめは川に面して東向きに建てられていました。
江戸時代の寛保2年(1742)の再建から、川を背にして西向きに建てられるようになりました。江戸時代には、お堂の前に舟着場があり、渡しや船宿もあり大変賑わったそうです。
本尊は馬頭観世音菩薩で、高さがは28.8cmだそうです。毎年4月19日に開扉され参拝することができます別名「こまんどう」とも呼ばれます。
現在のお堂は平成15年(2003)11月に建立されたものです。
【駒形の地名の由来】
駒形堂の地名の由来についての幾つかの説が説明板に書かれていました。
説明板のとおり書くと次のようです。
隅田川を船で上下しながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳せているようなので“駒がけ”といった。それが“駒がた”に転化した。(江戸名所記説)
観音様へ寄進する絵馬を掛けたので、駒掛け堂と名付けたのが訛った。(燕石雑誌説)
駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ。(大日本地名辞書説)
【戒殺碑】
境内の中に駒形堂付近の魚類の殺生を禁じた「戒殺碑(かいさつひ)」(左写真)が建てられています。
生類憐みの令を出した5代将軍綱吉の時代の元禄6年(1693)3月に建立されたもので、隅田川の南は諏訪町(駒形どぜうのあるあたり)から、北は聖天町までの漁を禁じられました。
【駒形堂吾嬬橋】
駒形堂は、歌川広重(一般には安藤広重と呼ばれていますが)が描いた名所江戸百景のうちの「駒形堂吾嬬橋」に描かれています。 左下に駒形堂が描かれています。
中央の紅の布は、駒形堂の筋向いにあった「紅屋(べにや)百助」という白粉や紅を売る小間物屋の宣伝用の布です。
また、中央の上部に鳥が飛んでいますが、これはほとぎすです。
当然、幕末の頃にも、このあたりをほととぎすが飛んでいたと思いますが、次の句を踏まえているといわれています。
「君はいま駒形あたりほととぎす」という句があります。
これは、吉原の遊女高尾太夫が詠んだ句です。
高尾太夫は、吉原の大見世三浦屋に代々受け継がれた太夫の名で、何代続いたかについては7代、11代など諸説があります。
この句を詠んだ高尾は二代目で、「万治高尾」と呼ばれていました。また、仙台藩主・伊達綱宗とのロマンスから「仙台高尾」とも呼ばれます。