そんな浅草寺の案内ポイントを引き続き書いていきます。
今日は、被官稲荷神社のご案内です。
【被官稲荷神社は出世の神様】
被官稲荷神社は、浅草神社の北東裏側にあります。
安政元年(1854)、新門辰五郎の奥さんが重病で床に伏したとき、伏見稲荷神社に祈願したところ、奥さんの病気が全快しました。
そこで、安政2年(1855)、お礼の意味も込め、伏見稲荷神社から分身を勧請しました。それが、被官稲荷神社です。
この神社は、出世の神様として信仰されています。
その由来のハッキリしたことは不明ですが、江戸っ子は、ヒをシと発音することからシカン稲荷神社と間違え、仕官できると思ったのではないかという説もあります。
【社殿は、東京大空襲を免れたもの】
社殿は 杉皮葺で、創建以来のもので、関東大震災、東京大空襲にも奇跡的に焼け残った貴重な建築です。
間口1.5メートル、奥行約1.4メートルと小さいものです。
上にかかっているのは、覆屋(おおいや)で、被官稲荷神社を保護しています。
【新門辰五郎】
ところで、新門辰五郎ですが、新門辰五郎は江戸下谷に生まれ、町火消の「を組」の頭である町田仁右衛門の娘を貰い養子縁組し、「を組」を継承しました。
輪王寺宮舜仁(しゅんにん)法親王が浅草寺伝法院に隠居し、上野へ行くのに便の良い新門を造り新門と名づけられました。
その門の番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれるようになりました。
新門辰五郎は徳川慶喜とも知り合い、娘のお芳は慶喜の妾となっています。
慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、子分を率いて上洛して二条城の警備などを行いました。
慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、大坂城から逃げる時に忘れてきた家康以来の金扇の大馬印を回収し、東海道を下って無事送り届けたことは有名です。
新門辰五郎の子孫は現在も健在で、株式会社新門の社長として浅草寺の出入り業者を務めています。