宝蔵門の東南にある二尊仏と久米平内堂は、少し右を見るとわかるのですが、意外と知られていませんので、今日はこの二つについてご案内します。
【縁結びの神様 久米平内】
久米平内堂は、宝蔵門の目の前にありますが、多くの人は気づかずに通り過ぎてしまうようです。
そして、縁結びの神様であることを知っているいる人はさらに少ないのではないでしょうか!
でも、恋を成就させようという人たちにとっては隠れた穴場なのです。
そもそも、久米平内という人は江戸時代前期の武士です。
この久米平内さん、剣術に優れた人で、多くの人を殺してしまいました。
しかし、後年、罪を悔い改め、浅草寺の子院金剛寺で「仁王坐禅」の修行し、犯した罪を償うために、臨終にのぞみ自らの座禅姿を石に刻ませ、その石像を多くの人に踏んでもらうため、その像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝えられています。
その後、平内の石像はお堂に納められたといわれますが、「踏付け」が「文付け」に転じ、「踏みつけてほしい」が「文つけてほしい」に変わり、縁結びの神として庶民の信仰を集めるようになりました。
以上が、一般的な説明なのですが、矢田挿雲の「江戸から東京(2)浅草」には、もっと詳しく書かれています。
全文は5ページにもわたって、平内の経歴が書いてあります。それによると、大阪夏の陣の七手組の子供で津和野で育ち、津和野では、長州毛利家から送り込まれた剣客を徹底的にやっつたり、江戸に出ては、町奴の幡随院長兵衛と知り合い、旗本奴の水野十郎兵衛と渡り合ったりして、人を殺すこと87人になり、当人もうんざりし、自分の坐像を刻み土に埋めたとしています。
平内堂は、昭和20年3月の震災で焼失し、現在のお堂は53年に再建されたものです。
昔の絵でみると、平内堂はかなり大きかったようですが、現在のお堂はかわいらしものになっています。
平内の石像がお堂の中に収まっているそうです。
【江戸初期の二尊仏】
久米平内堂の東側に、「二尊仏」と呼ばれる仏様があります。江戸初期の優れた仏像と言われています。
この仏像は、一般には「濡れ仏」(ぬれぼとけ)の名で知られています。
右が観音菩薩様、左が勢至様です。
蓮台も含めて4.5メートルの像高を誇り、江戸初期を代表する優れた仏像です。
江戸時代前期の 貞享4年(1687)、 現在の群馬県館林の高瀬善兵衛が願主となって建立しました。
善兵衛は江戸日本橋の米問屋に奉公し、その主家より受けた恩を感謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るために造立したと言われています。
安永6年(1777)、高瀬奥右衛門が願主となり、修理したことが観音像銘に追刻されています。