しかし、いくつかは、その後継の松が植えられているものがあります。
蔵前にあった 「首尾の松」 もその一つです。
【現在の首尾の松は7代目】
「首尾の松」は現在は、蔵前橋の西のたもとにあります。
都営地下鉄「蔵前」駅A1番出口から徒歩5分のところです。
現在の首尾の松は7代目といわれていますが、それほど大きくありません。
右写真は蔵前橋通りの反対側から撮ったものですが、2本の松のうち右の大きいほうが「首尾の松」です。
背景にみえるのは隅田川の向こう側にある両国国技館です。
【首尾の松の説明板】
首尾の松の説明板に、首尾の松についてわかりややすく書かれていました。
『この碑から約百メートル川下に当たる。浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
その由来については次のような諸説がある。
1、寛永年間(1624~43)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿倍豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
2、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上がり下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。
3、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。
初代「首尾の松」は安永年間(1772~80)風災に倒れ、更に植継いだ松の安政年間(1854~59)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次世界大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。』
【名所江戸百景「浅草川首尾の松御厩河岸」】
「首尾の松」を、歌川広重は、名所江戸百景の「浅草川首尾の松御厩河岸」で描いています。
「首尾の松」は、浅草御蔵のなかにありました。
御蔵には、米を荷揚げするために1番堀から8番堀まで櫛状の堀がありました。
その堀の4番堀と5番堀の間の埠頭の先端にあった松が「首尾の松」でした。
広重の絵では左上から枝を張り出しているのが「首尾の松」です。
広重が描いている松も、上記の説明板の説明されているように初代の「首尾の松」ではありませんでした。
松の下には男女の忍び合いの屋根舟が係留されています。
その舟の奥の川船は、御蔵の北にあった御厩河岸と向かいの本所石原町を結ぶ渡し船です。
【浅草御蔵】
浅草御蔵について少し説明しておきます。
蔵前には、江戸時代天領から送られた米を保管する米蔵がありました。
これは浅草御蔵と呼ばれていました。
浅草御蔵は、南は現在の浅草柳橋2丁目より、北は浅草蔵前3丁目にかけてありました。
敷地は、もっとも広かった弘化年間(1844~48)には、およそ3万6000坪ありました。
南北が580メートル、東西が広いところで830メートル、狭いところで230メートルあり、「東京ドーム」2つ分の広さがありました。
現在、蔵前橋通りをはさんだ首尾の松の反対側に「浅草御蔵跡」の碑が建っています。
現在の蔵前橋通りは、浅草御蔵のほぼ中央を横切る形で通っています。
緑が「首尾の松」、ピンクが「浅草御蔵跡の碑」