末廣神社は、東京メトロ「人形町」駅A3番出口から2分のところにあります。
【末廣神社は、元吉原の氏神様】
江戸幕府が開かれる直前の慶長元年(1596)にはすでにお稲荷様の祠が鎮座していたそうです。
末廣の名は、延宝3年(1675)に社殿を修復した際、本殿から末廣の扇が出たことに因むものだそうです。
この末廣神社は、元吉原の氏神様です。
現在の吉原は、浅草の北側にありますが、江戸時代の初めは、吉原は、現在の人形町あたりにありました。
江戸時代のはじめ元和3年(1617)に庄司甚右衛門という人を中心に、幕府の許可を得て、沼地であった人形町近辺を埋め立て、遊女町を開きました。これが葭原(吉原)の起こりです。
葭(よし)が生い茂っていたため葭原と名づけられたそうです。
「葭」の字を、縁起の良い「吉」に替えて「吉原」としたそうです。
吉原が開設されてから40年たった明暦3年(1657)、幕府の命により、葭原の遊女町は浅草の新吉原へ移転しました。
この移転後の新吉原に対して、人形町の方は元葭原と呼ばれるようになりました。
この末廣神社は、吉原に遊女町があるころは、その氏神様として信仰を集めました。
遊女町が移転した後は、幕府に仕える役人が多く住むようになり、その氏神として信仰されたといいます。
元吉原がどのあたりなのか、宮司の奥さまに尋ねてみましたが、現在関心をもって調査をしているがまだはっきりとはしていませんという回答でした。
【毘沙門天は仏法守護の四天王の一人】
七福神は、毘沙門天がお祀りされています。 ふくよかな七福神の中で毘沙門天だけが鎧兜で武装した厳しい姿をしています。
毘沙門天は、もとはインドの財宝福徳を司る神様で、サンスクリット語で、 ヴァイシュラヴェナと呼ばれていました。
仏教に取り入れられてからは、仏法を守護する四天王の一人として北方守護の任を負い、四天王中最強の力を誇るとされました。
我が国では、「毘沙門天」とともに「多聞天」の名でも呼ばれます。
毘沙門天はヴァイシュラヴェナを音訳した名前です。
一方、多聞天とは、ヴァイシュラヴェナを意訳した名前で、ヴァイとは「広く」とか「多く」を意味し、「シュラヴァ」は「聞く人」という意味です。
単独で信仰されるときは「毘沙門天」、四天王の一人として信仰される時は「多聞天」と呼ばれることが多いようです。
上杉謙信がこの毘沙門天を深く信仰したことで有名です。