回向院の本堂の東側には、鼠小僧次郎吉のお墓があります。
お墓の前に屋根付き賽銭箱があり、屋根が目立ちますので、すぐわかります。
墓石の高さ100cm、台石の高さ35cmの供養墓です。
【当り狂言となり、お墓ができた】
鼠小僧は、ご存知のように盗賊です。江戸時代には犯罪者は墓をつくることが禁止されていました。そのため、江戸時代には、鼠小僧の墓はありませんでした。
しかし、明治になって、歌舞伎や狂言で「鼠小僧」の人気が出たため墓が作られたものと思われています。
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町人の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれます。
こうした鼠小僧は、戯作者河竹黙阿弥が作り上げ世に送りだしたと言われています。
この鼠小僧は歌舞伎や狂言で取り上げられて大いに人気を博しました。
そのため、回向院の墓は、歌舞伎の市川一門の一人であった市川団升が明治9年に作ったものであると矢田挿雲が中公文庫「江戸から東京(4)」で書いています。
【盗んだ金は飲み打つ買うために使用】
しかし現実の鼠小僧の記録を見るとこのような事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しています。
ただし、彼が大名屋敷を狙ったことは事実で、鼠小僧が盗んだ金は3000両と言われます。
大名屋敷を専門に狙った理由については敷地面積が非常に広く一旦中に入れば警備が手薄であったことや面子と体面を守るために被害を公にしにくいという事情もあったようです。
鼠小僧は天保3年(1832)に捕まりました。
鼠小僧が捕まったのは、上州小幡藩松平家の下屋敷でした。そこで鼠小僧は逮捕されたのでした。
上州小幡藩松平家の下屋敷は東京シティエアーターミナルの東北にある、有馬小学校あたりにありました。
そして、に市中引き回しの上での、小塚原刑場で獄門に処されました。
【墓を削る人が大勢】
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が江戸時代から盛んで、いまも墓石を削って御守りにする人が大勢います。
供養墓の前に小さな供養碑がありますが、別名「欠き石」と呼ばれるもので、それを削りとって御守にします。
欠き石は何回も建て替えられ、その数は数百基にもなるそうです。
お参りした時も削り取っている人がいました。