【安国殿の中の和宮像】
安国殿の中に和宮像が安置されています。
安国殿に入り、正面左手に安置されています。
銅像があることはだれでも気がつくとは思いますが、あまりPRされていないので、和宮の像だと気がつかない人も多いかもしれません。
この和宮像は、鋳造師の慶寺丹長師により昭和3年に製作されたものです。
【複数体の和宮像】
増上寺の説明では、和宮像は、日本に三体あるそうです。その一体が増上寺にあるわけです。
他の像は、一つは日本女子会館にあります。
日本女子会館にあるものが下の写真です。
日本女子会館は増上寺の近くにありますが、そこに和宮像があることはほとんど知られていません。
これは、財団法人に本女性学習財団のT課長さんのご配慮で拝観させていただいた際に撮った写真です。
さら、もう一つの和宮像は兵庫の高等学校にあるそうです。
【和宮の生涯】
和宮は、親子(ちかこ)内親王といい、仁孝(にんこう)天皇の第8皇女として、弘化3年に生まれました。
母は議奏(ぎそう)の橋本実久(さねひさ)の娘経子(のちの観行院(かんぎょういん))で、誕生後、橋本邸で養育されました。
嘉永4年(1851)6歳で、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約しました。
しかし、大老井伊直弼らを中心に公武合体のため降嫁が計画され、老中安藤信正によって、降嫁が実現しました。
文久2年(1862)2月11日には江戸で14代将軍家茂との婚儀が行われました。
しかし、将軍家茂は、第二次長州攻撃のため三度目の上洛中の慶応2年(1866)7月20日、大坂城で病死しました。21歳の和宮は江戸城にとどまり、12月に薙髪(ちはつ)して静寛院宮(せいかんいんのみや)と名のりました。
江戸城開城後、清水邸に移り、明治2年正月に京都に戻り明治7年6月まで滞在した後、ふたたび東京に帰りました。
明治10年8月から、持病の脚気(かっけ)治療のため、箱根塔ノ沢温泉に滞在し、9月2日そこでなくなりました。
亡骸は、家茂がねむる増上寺に葬られました。
【貞恭庵】
増上寺には、和宮ゆかりの茶室もあります。「貞恭庵」といいます。
和宮の法名は、「静観院宮増一品内親王好誉和順貞恭大姉」と言います。
茶室の名前は和宮の法名の最後の「貞恭」に由来します
本堂左手の丘の上にあります。
ここは、原則、毎月第4日曜日に公開され、お茶を喫することができます。
ただし、1月と4月は変更される可能性もあるとのことですので、事前に公開されるか確認したほうがよいとのことでした。
ちなみに2月は27日(日)に公開されます。料金1000円です。
担当の方の話ですと、和宮が江戸城で利用していた茶室ではなく、明治以降に利用していた茶室のようです。