増上寺周辺の史跡のうち、「広度院」と「開拓使仮学校跡」を紹介します。
【「広度院」の表門と練塀】
大門と三解脱門の間には、江戸時代、多くの増上寺の子院が建ち並んでいました。
現在も、寺院が並んでいます。これらの寺院の宗派はいうまでもありません浄土宗です。
そのなかで、三解脱門に一番近いところにある寺院が「広度院」です。
広度院は、増上寺の子院の中で、最も早く建立された子院だそうです。
広度院という名前は、増上寺の正式名称「三縁山広度院増上寺」からいただいたものだそうです。
このお寺の表門と練塀が国の登録文化財となっています。
練塀は底部に間知石(けんちいし)を置き,芯柱を用いずに土と瓦を交互に積み上げて壁体とする構造で,現在では用いられることがありません。
この練塀は、昔の増上寺周辺の様子がどうであったを知るよすがとなるとともに、趣のある空間を作っています。
【開拓使仮学校跡】
東京メトロの「御成門」駅出口 を出ると芝公園となっています。
この芝公園の一角に、「開拓使仮学校跡」の碑が建っています。
この芝公園と御成小学校、みなと図書館がある一画に、江戸時代に増上寺の方丈がありました。
明治になって、明治5年ここに、開拓使仮学校が開設されました。
札幌に移し規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれました。
生徒は、官費生・私費生各60名でした。さらに、官費生50名の女学校を併設されました。
卒業後、官費生は開拓事業に10年間、私費生は5年間従事することが義務付けられました。また女学生には卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせたそうです。
仮学校は明治8年札幌学校と改称し女学校とともに札幌に移転し、翌年明治9年には札幌農学校となりました。
この札幌農学校の初代教頭が、有名なクラーク博士です。
なお、厳しい結婚条件のつけられていた女学校は明治9年には廃校になっています。