現在の徳川家墓所は、安国殿の後ろ側にあります。
4月15日から11月30日まで特別公開されていて、将軍の宝塔を 拝観料500円で拝観することができます。
墓所の全体像は、右の写真のようです。まわりは緑に囲まれていて、コの字を立てた型に宝塔が並んでいます。
最奥に秀忠とお江の宝塔、その左に家宣の宝塔。
右の列に奥から、①7代将軍家継、②9代将軍家重、③12代将軍家慶の宝塔。
左の列に奥から、①14代将軍家茂、②家茂の正室静寛院宮、③将軍正室や側室の合祀塔が並んでいます。
そのうち、今日は、2代将軍秀忠・お江(法号は崇源院)の宝塔と6代将軍家宣、7代将軍家継、9代将軍家重の宝塔を紹介します。
【秀忠・お江の宝塔】
秀忠とお江の宝塔は墓所の最奥の右手にあります。。
秀忠の宝塔は木製であったため、戦災で焼失してしまいました。現在の宝塔はお江の宝塔を使用しています。
しかし、亡くなった時の年齢は一緒で、ともに54歳でした。
お江は 寛永3年(1626)に亡くなり、秀忠は、その6年後の寛永9年(1632)年1月に死去しました。
【秀忠の宝塔】
右の写真は、秀忠の宝塔の写真です。
この写真は、長崎大学付属図書館が所蔵しているものです。
秀忠の霊廟すなわち台徳院霊廟は、増上寺の南側にありました。
惣門、勅額門を過ぎた奥に拝殿・相之間と本殿からなる権現造りの霊屋がありました。
霊屋の南側に奥院がありました。
秀忠の宝塔は、奥院の拝殿の奥にある覆屋の中にありました。
宝塔は木製で、八角三重の石造りの台座の上に設けられた上下二重の連座に載せられていました。
宝塔は蒔絵による模様が描かれ、七宝入りの精巧な透金具が使用されるなど、当時の工芸の粋を尽くしたものとなっていました。
秀忠の遺体は宝塔の真下に埋葬されていました。
一方お江(崇源院)の宝塔は、北御霊屋にありました。
【6代将軍家宣の宝塔】
これは、6代将軍家宣の宝塔です。
秀忠・お江の宝塔の左側にあります。
家宣は3代将軍家光の三男甲府藩主徳川綱重の長子です。始め綱豊と言っていましたが、宝永元年(1704)に5代将軍綱吉の後継者となり、家宣と改名しました。
そして、宝永6年(1709)、綱吉が亡くなり、6代将軍となりました。
将軍になると、側用人間部詮房(まなべあきふさ)、侍講新井白石の補佐を受け、生類憐みの令の廃止するなど、正徳の治を呼ばれる善政を敷きましたが、在職4年足らずで正徳2年死去しました。
【7代将軍家継の宝塔】
これは、7代将軍家継の宝塔です。右の列の最奥にあります。
家継は、6代将軍家宣の三男です。母は家宣の側室月光院です。兄2人が若くしてなくなったため、家宣没後、正徳3年(1713)わずか3歳で将軍に就任しました。
側用人の間部詮房、新井白石の補佐により、政治を行いますが、 わずか6歳でなくなりました。
正室として皇女八十宮(やそのみや)との婚約が整いましたが、翌年家継が没したため、降嫁は実現しませんでした。
【9代将軍家重の宝塔】
これは9代将軍家重の宝塔です。右の列の真ん中にあります。
家重は、8代将軍吉宗の長子です。生母は側室おすまの方です。
延享2年(1745)父の跡を受けて9代将軍となりました。
生まれつき虚弱のうえ、若くから大奥の婦女を相手に酒宴にふける生活を続け、健康を害し、言語も不明瞭で、わずかに側用人大岡忠光だけが聞き分けることができたといわれています。