それは、寛永寺の執事長をされている浦井正明氏が書かれた「上野寛永寺 将軍家の葬儀」という本です。
確かに、この本には、家綱と綱吉の葬儀の様子が詳しく書かれています。
そこで、今日は、家綱の葬儀の様子を、「上野寛永寺 将軍家の葬儀」に基づいて書いていきます。
4代将軍家綱は、延宝8年(1680)5月8日に40歳でなくなりましt。
5月14日に遺骸の移送が行われました。
まず申(さる)の刻(午後4時ごろ)に遺骸を迎える僧たちが、寛永寺を出発します。
午後5時ごろに、江戸城の北桔橋門で乗り物をおり、城内に向かいました。
遺骸は、酉の刻(午後6時ごろ)に出発し、北桔橋の手前で読経した
のち東叡山に向かいました。
戌の刻(午後8時ごろ)に遺骸が無事本坊の黒書院上段の間に安置され最初の法要が行われました。
その後、26日の葬儀まで、毎日3回の法要が行われました。
後夜(午前6時ごろ)、日中(正午ごろ)、初夜(午後4時ごろ)の勤行が行われました。
この間、霊廟の建築も進んでいました。
霊廟の準備が整うと本坊から霊廟の惣門にいたる間を布幕で仕切り、1間半に一つの間隔で高張提灯が架けられます。そして、本坊から霊廟までの道筋には白布が敷かれました。
葬儀当日には、午後4時すぎに、僧が本坊に参集し、幕閣以下の人々が着座し、供茶、供膳とすすんで法要に入ります。
一連の読経が終わると、大導師以下参列者一同全員が庭に降りて整列し、遺骸の出御を待ちます。遺骸が出御すると三羽の鷹が放されます。
その放鷹が終わると、行列を整えて霊廟に向かいます。
遺骸は霊堂前に安置されます。次いで出仕者中の長老の焼香があり、いくつかの作法のあと、大導師の下火之文を唱え終わると、遺骸は石槨中に納められます。
この後、出仕の僧は、石槨の周り廻りながら読経し逐次正面で焼香します。
最後に、将軍の名代である酒井忠清が焼香をします。
この後、拝殿で霊膳を供える作法等が行われ埋葬の儀式が終わります。
以上が、葬儀の概要です。
将軍の葬送儀礼は、夕方から夜間に行われました。これは、夜儀(やぎ)と呼ばれ、家康の時代から行われていました。
また、本堂から霊廟まで、白布が3本敷かれましたが、これも夜儀とともに天皇家の儀式に倣ったものだそうです。
そして、普通の葬送儀礼を大きく異なることは、本来喪主である将軍綱吉や御三家など一門の人々が、葬儀・中陰などのすべての法要が終わるまで、まったく参詣しないことだそうです。