上野風月堂さんは、JR御徒町駅北口から徒歩2分、東京メトロ「上野広小路」駅A4出口の目の前で、上野松坂屋の前にあります。
【由緒ある老舗】
「風月堂」さんといえば、ゴーフルで大変有名です。
この風月堂という名前は、寛政の改革を実行した松平定信が命名したのだそうです。
そして、風月堂の文字をかいた暖簾は天保の改革を行った水野忠邦からいただいたそうです。
こうした輝かしい歴史をもっている風月堂は、1751年(宝暦元年)に創業されました。
創業当時は、「大坂屋」と名乗っていました。
創業者は大住喜右衛門といい、大阪の出身でした。
【初代の養女は、水野忠邦の生母】
初代喜右衛門には子供がなく、恂(じゅん)という女を養女としました。
この恂が、唐津藩主水野家に奉公に上がったところ、当主忠光の目にとまり、側室となり、後の老中水野忠邦を生みます。
その後、忠邦が跡継ぎとなることが決まったために、宿下がりとなり、初代喜右衛門の家に戻り、婿として二代目喜右衛門を迎えました。
水野忠邦は、生母の新しい夫、二代目喜右衛門を引き立てお出入りの菓子商人として厚く遇しました。
そこから二代目喜右衛門は、松平家の御用菓子商人ともなりました。
【風月堂の命名は松平定信】
二代目喜右衛門は松平定信に気に入られ、松平定信から屋号として「風月堂清白」の五文字を賜りました。
中国の詩人、蘇東坡(そとうば)の「前赤壁ノ賦」の一節「風清ク月白シ」から採った言葉だそうです。
そして、「風月」は松平定信の雅号でもありました。
喜んだ二代目喜右衛門がこれを水野忠邦に報告すると、水野忠邦は巨大な白布に「風月堂 」と当時の名書家市川米庵(いちかわべいあん)に揮毫させた暖簾をくれたそうです。
この「風月堂」の暖簾の文字は現在も使われています。上野風月堂の正面入口の脇に、暖簾として飾れていました。(写真)
風月堂の「風」の字が、一に白となっているのは、米庵が「虫」を嫌い、「虫」と同じ意を持つ「一日」と書いたところ、筆の勢いで「一白」となったからだそうです。
また、商標の「白扇と三日月」は風を表現しているそうです。
【風月堂の暖簾を受け継ぐ上野風月堂】
上野風月堂さんは、風月堂五代目大住喜右衛門の息子、大住省三郎が創設したお店です。
従って、総本店からすると分店なのですが、総本店は跡継ぎの夭折が続き、残念なことに昭和31年に休業してしまいました。
そのため、現在、初代大住喜右衛門からの血を継承するのは「上野風月堂」さんのみとなってしまっています。
風月堂とういお店は、日本各地にあります。
その中で、銀座風月堂、東京風月堂、神戸風月堂が特に有名です。
しかし、これらの風月堂のうち、上野風月堂と同じように、江戸時代からの暖簾と伝統精神を受け継いでいるのは上野風月堂と神戸風月堂だけだそうです。
【ゴーフルは西洋せんべい】 風月堂といえば、ゴーフルといわれるぐらい有名です。
ゴーフルは西洋菓子と思われていますが、洋菓子の材料を取り入れた和菓子で西洋せんべいともいうべきものだそうです。
小麦粉、砂糖、牛乳、バター等の材料を和菓子のせんべいを焼く技術を活かして 直径15cm、厚さ1mm程の円形にさっくりと 焼いたもの二枚で、薄く延ばしたクリームを挟んでつくるそうです。
ゴーフルという言葉はフランス語で、英語のワッフルと同じで、「蜂の巣」を意味するそうです。
今回、上野賦月堂さんの石本取締役営業部長から提供いただいた「『ふうげつ』物語」という本を参考に記事を書かせていただきました。
また、店頭では、芹田店長さんに親切にご対応いただきました。
石本部長さん、芹田店長さん、大変お世話になりました。ありがとうございました。
赤印が上野風月堂さんです。