新撰組の母体となったのは「浪士組」です。
浪士組というのは、文久3年2月23日に上洛する予定であった14代将軍家茂の警護のために集められた浪士たちの集団です。
この浪士組の結成を献策し、その中心となったのは清河八郎です。
清河八郎と浪士組については、 「浪士組と清河八郎②」 に書きましたので、こちらご覧ください。
近藤勇、土方歳三たち、後に新撰組を結成する人たちも江戸でこの浪士組に参加しました。
文久3年(1863年)2月8日、小石川伝通院に集まった浪士組は、江戸を出立して中山道を上洛を開始します。
9日、本庄宿に到着。ここで、先番宿割を任されていた近藤勇が芹沢鴨の宿を取り忘れてしまい、怒った芹沢が路上で大篝火を焚くという騒動を起こしましたが、近藤勇が池田徳太郎と共に芹沢に謝罪して事なきをえたことが、永倉新八の「新撰組顛末記」に書かれています。
11日に松井田宿、13日が長久保宿、14日が下諏訪宿、15日に奈良井宿、17日が中津川宿、19日に加納宿、21日が武佐宿、そして、22日には大津宿に泊まり、ついに23日に京都に到着しました。
京都では壬生村で、新徳寺や八木家、前川家などに分宿しました。
京都に着いた23日の夜、清河八郎は、新徳寺に浪士をあつめ、浪士組の真の狙いは攘夷実行にあることを明かし浪士組全員の署名集めた建白書を朝廷(学習院)へ提出しました。
この建白書には、芹沢鴨も近藤勇も署名したと言われています。
建白書提出の後、清河八郎は、江戸に帰還し江戸で攘夷実行を行うことを主張します。一方、清河八郎に裏切られた形の幕府も、浪士組に帰還命令を出しました。
そして、3月13日に清河八郎らが率いる浪士組は京都を出立して江戸へ向かいました。
しかし、芹沢鴨や近藤勇は、江戸に帰ることに大反対し、京都に残留することにしました。
残留したのは、「新撰組顛末記」では、八木家に分宿していた芹沢鴨や近藤勇ら13人となっていますが、24人という記録もあるようです。
そして、京都に残ることとなた芹沢・近藤らは京都守護職を務めていた会津藩預かりとなりました。
この残留した人たちが、「壬生浪士組」の看板を八木家の門柱に掲げたそうです。
上段の写真が現在の八木家の門の写真です。
そのため、当初は「壬生浪」と呼ばれていました。
「壬生浪士組」が、「新撰組」と名乗るようになったのは八月十八日の政変の後です。
「新撰組」という名前は、朝廷の武家伝送から下されたと新撰組隊士の島田塊の日記には書かれているようです。
一方、江戸に戻った「浪士組」は、中心人物の清河八郎が、4月13日、幕臣の佐々木只三郎らによって麻布一ノ橋で暗殺されました。
その後、幕府は浪士組を新たに「新徴組」と名付けて、庄内藩預かりとしました。
上記の近藤勇の写真は国会図書館所蔵です。