江戸時代の話題とは異なりますが「弥生式土器」の発見のお話です。
明治17年(1884)3月2日、東京大学の坪井正五郎、有坂鉊蔵、白井光太郎の3人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見しました。
この土器は、大森貝塚などの縄文式土器と異なっていることから、発見地の地名を取り「弥生式土器」と名付けられました。
発見されて場所の町名は向ヶ丘弥生町といいました。この町名は、徳川斉昭の建立した「向岡記」碑文の中の「弥生」から名づけられたものです。
しかし、「弥生式土器」第一号の発見地がどこかは、大正時代にはわからなくなっていたそうです。都市化が進んだためと言われています。
【弥生二丁目遺跡】
そこで、現在でも第一号発見場所の推定地としては5か所もあるそうです。
その中で一番ポピュラーなのが、浅野地区工学部9号館東に位置する「弥生二丁目遺跡」です。
これは、昭和50年に東京大学文学部考古学研究室・理学部人類学教室が、東京大学構内の浅野地区を発掘調査し、二条の溝と貝層、弥生式土器等が発見されたそうです。
そして、ここが昭和49年6月7日「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定されました。
「弥生二丁目遺跡」の説明板は、工学部の9号館の東の笹のなかにありました。
浅野キャンパスは、歩いている人も少なく静かなキャンパスでした。
笹と雑木林の向こうは崖になっています。ここが段丘地形であることがよくわかります。
【弥生式土器発掘ゆかりの地の碑】
浅野キャンパスの西北隅の言問通り沿いに「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑がありました。
昭和60年7月に建立されたものです。
裏に建碑のことばが書かれていました
弥生式土器は、ここ向ヶ岡弥生町(現在弥生二丁目)内の数ヵ所から初めて出土発見され、町名を冠して「弥生式」と名づけられました。
遠いむかし、人々はこのあたりに住みつき、日本文化の曙を告げたのです。弥生式土器向ヶ岡遺跡の発見によって弥生時代という重要な文化期の存在が知られました。私たちはこうした歴史の壮大で匂やかなロマンを憶いふるさとわが町の誇りを語りつぎ出土と命名の史実を末永く顕彰するため、この記念碑を建てました。
昭和29年、行政措置によりこの町は弥生二丁目と変わりましたがあ、町会名は歴史的な名を継承しております。昭和61年夏 七月吉日 向ヶ岡弥生町会有志
赤印が「弥生二丁目遺跡」 青印が「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑