真成院は江戸名所図会にも書かれている古刹で江戸三十三観音めぐりの18番札所です。
この札所ご本尊は十一面観音様で、塩踏観音または潮干観音と呼ばれている江戸時代の有名な仏様です。 詳しくは、後日、江戸三十三観音めぐりの御案内の中で紹介しようと考えています。
今日は、真成院の後に訪問した愛染院をご紹介します。
愛染院は、天正年間に創建され、もともと麹町貝塚にありましたが、江戸城の拡張工事のため、寛永11年(1634)、現在地に移りました。愛染院には、新宿区指定史跡の「塙保己一の墓」と「高松喜六の墓」が残されています。
今日は 内藤新宿の生みの親の高松喜六についてご案内します。
【甲州街道の役割】
まず甲州街道の役割について説明します。
江戸の北と南は比較的深い谷で区切られていて、東は海に面していました。しかし、西側は武蔵野台地がなだらかに続くだけで、防衛上手薄でした。
そのため、外堀を築いて、西方の防衛線としました。
また、番町・麹町地域には、旗本の精鋭を集中的に集めました。また、鉄砲組なども重点的に配置しました。
甲斐国は、山や谷が多く守るに易く攻めるに難い地でした。そのため、江戸城を放棄しなければならなくなった時には、甲斐国に撤退して立て籠もる考えが家康にはありました。
そのため、甲州街道は、江戸と甲州を結ぶ重要な軍事道路でした。
退去するにも攻撃するにも大切な道路でした。
また、城を築くには大量の石灰が必要でした。江戸周辺での石灰の産地は青梅でした。
青梅街道は、青梅から石灰を運ぶための産業道路の役割を果たしました。
そのため、甲州街道は五街道の一つとして整備されたのでした。
【内藤新宿生みの親 高松喜兵衛】
甲州街道の最初の宿場は、元々は高井戸(現杉並区)でした。
高井戸は日本橋を出発して4里8町(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。
そこで浅草阿部川町(現在の台東区元浅草)の名主高松喜兵衛たち5人が、元禄10年(1697)に、太宗寺の南東に宿場を開設するよう幕府に願いをだしました。
この願いは翌年元禄11年(1698)に許可となり、「内藤新宿」は元禄12年(1699)に開設されました。
この許可には、5600両の上納金をするという条件がついていました。5600両と言うのは現在の貨幣価値では10億円近くの莫大な金額だそうです。
高松喜六たちはこの条件を飲んだので宿場の開設は許可されました。
内藤新宿生みの親の高松喜兵衛は名前を喜六と改め、内藤新宿の名主となり、子孫も、代々、新宿の名主を務めました。
しかし、高松喜六たちが開設に努力した内藤新宿は、開設後わずか19年後の享保3年(1718)に宿場は廃止となってしまいました。
これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたことなどが原因といわれます。
その後、度重なる再興の願いにより、54年後の明和9年(1772)には宿場は再興されました。
現在、日本一の繁華街として繁栄している新宿は意外と多難な歴史があったわけです。
高松喜六の墓は、上の写真の正面右側のお墓です。
赤印が愛染院です。