かつての九段高校(現在は中高一貫校の九段中等教育学校になっています)の脇を通って靖国神社に向かいます。この土地は、関東大震災までは、琉球王朝の国王だった尚泰の屋敷跡です。
【靖国神社】
靖国神社は明治2年(1869)に、国内外での戦争などで戦没した軍人などを祀るための神社として創建されました。初めは東京招魂社と呼ばれました。
この東京招魂社の建設にも、大村益次郎が関わっていて、九段の場所を提案したのが、大村益次郎だそうです。ちなみに、社地は旧幕府歩兵屯所跡です。
東京招魂社は、明治12年(1879)に靖国神社と改称されました。
「靖国」という社号は、明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
【大村益次郎銅像】
靖国神社には、東京三大銅像の一つ大村益次郎の銅像があります。
ちなみに他の二つは上野の西郷隆盛像、皇居外苑の楠木正成騎馬像です。
この銅像は、大村益次郎が彰義隊を討伐するときの姿をモデルにしているそうで、陣羽織を着て左手に双眼鏡を持って東北の方向つまり上野の方向を見ています。
大村益次郎の銅像は、明治26年(1893)、日本最初の西洋式銅像として建てられました。
製作者は大熊氏廣です。
大熊氏廣は、埼玉県川口市に生まれました。
明治9年に設立された工部美術学校彫刻科に第1期生として入学し、明治15年首席で卒業しました。
明治18年に大村益次郎の銅像の制作を委嘱されると、依頼の重要性に鑑みて西洋彫刻を深く学ぶためヨーロッパに留学します。帰国後、大村益次の銅像を完成させてからは、日本を代表する彫刻家として活躍しました。
代表作品は、「大村益次郎像」のほか、東上野公園の「小松宮彰仁親王騎馬像」、有栖川宮記念公園の「有栖川宮熾仁(たるひと)親王騎馬像」、浅草公園の「瓜生岩子像」などがあります。
【神道無念流道場練兵館跡】
靖国神社の南門近くに 「神道無念流練兵館跡」 の石柱があります。
練兵館は、幕末の剣豪斎藤弥九郎の開いていた道場で、千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに、幕末三道場といわれています。
斎藤弥九郎は、越中の農家の生まれですが、江戸に出てで旗本能勢祐之丞(のせすけのじょう)の家僕となりなり、神道無念(しんとうむねん)流岡田十松吉利(よしとし)の撃剣館に入門しました。
弥九郎の修業ぶりは目覚ましく、わずか数年の間に先輩たちを凌駕して、代稽古を勤め、岡田十松の没後は、息子の利章を補佐して道場の経営にありました。
岡田十松道場では江川太郎左衛門英龍も剣術を学んでいて、江川の援助により、文政9年(1826)に独立して九段坂下俎橋(まないたばし)畔に道場練兵館をおこし、天保9年(1838)三番町に移しました。 これが、現在は靖国神社の境内となっています。
練兵館には、全国から入門者が集まりました。特に長州藩の出身が多く、塾頭を務めた桂小五郎(木戸孝允)が最も有名ですが、そののほか、高杉晋作・伊藤博文らも学んでいました。
斎藤弥九郎は剣術だけでなく、兵学や砲術も学んでいて、西洋銃隊調練や品川台場の築造あるいは尊王攘夷運動に関係するなど、剣術以外の分野でも幅広い活躍しました。
斎藤弥九郎については、詳しくは こちら 斉藤弥九郎① (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」) をご覧ください。
赤印が大村益次郎銅像 青印が神道無念流練兵館跡の石柱 緑印が富士見小学校 です。