しかし、多くのものは昔からの門徒も処罰すべきだと言いましたが、家康は、昔からの門徒は処罰しませんでした。
その、許された門徒の中に、小栗忠政がいました。その忠政の逸話が、家康公伝に書かれています。
一揆が収まり、小栗又一忠政が出てきました。
すると家康は忠政の胸ぐらをつかみ「お前は宗門を改めるかさもなくば刺し殺す」と刀を抜いた言いました。しかし忠政は「御手打ちになろうと改宗はできません」といったので、「お前のようなものは殺しても無益である」といって突き放された。
忠政は、突き放された瞬間に「今こそ法華宗に改宗します」と言いました。
家康は咎めて、「手討ちにあっても改宗しないといった矢先に、次は法華宗に改宗するというのは何事か」と言うと、忠政は「侍たるものが手討ちを恐れて改宗するでしょうか。ただ一命をお助けくださるというお言葉に感謝申し上げるために法華宗に改宗すると申しました」と言うと、家康は思わず笑ったと書かれています。
この小栗忠政は、その後の逸話編にも出てきます。
元亀元年(1570年)、姉川の戦いの際に若輩ながら奮戦します。
家康公伝3には次のように書かれています。
小栗又一忠政は、最初庄次郎と名乗っていたが、この戦の時わずか16歳であった。敵兵の一人が家康の側近くに忍び寄ってくるのを見つけ、とっさに御物(ぎょぶつ)の信国(のぶくに)の槍を取って渡り合っている討ちに、家康の軍勢が集まって、ついに敵を討ちとった。
家康は庄次郎がまだ年若いにもかかわらず機転がきくのを褒めて「今日の功は一番槍をもしのぐ」とその槍を与えになった。その後も度々戦いにおいて一番槍を入れたので、家康が「又一か」とおっしゃるので、小栗は「又一」と改めたという。
小栗忠政は、最初の通称であった「又市」を家康の「又もや一番槍」の評価をこめて「又一」の名と変えたと言われていることは、東照宮実紀に書いてあtったのです。
この小栗忠政のお墓が、さいたま市大宮区大成町の普門院にあります。JR大宮駅から徒歩15分ぐらいです。
本堂の裏側に小栗忠政一族の墓所がありました。(左上写真)
ここには小栗本家・分家併せて30基に及ぶ一族の墓があります。
墓所の一番左手奥に小栗忠政のお墓(右写真)があり、向かい側に夫人のお墓があります。
武蔵国足立郡大成村は、小栗忠政が家康から拝領した土地です。忠政は、大成村550石を含めた2,550石を与えらました。
小栗忠政は、普門院を復興し、小栗家の菩提寺としました。
忠政が没した後、延宝元年(1673)から明和5年(1768)までは天領となりましたが、再び小栗家が拝領し、明治維新を迎えるまでこの地を治めました。
幕末の外国奉行や勘定奉行など要職を歴任した小栗上野介忠順(ただまさ)は、小栗忠政の子孫で小栗本家の12代当主です。
小栗上野介は、上野に帰る途中、普門院に立ち寄り、永代供養料50両を納めて、さらに、伝来の具足、信国の名槍、同家始祖・忠政の画像も同時に和尚へ託していったそうです。
小栗忠政の墓の手前に小栗上野介の首塚(左写真)がありました。
しかし、自然石に何も書いていないので見た目にはお墓とはわかりません。
小栗上野介のお墓は高崎市倉渕町権田の東善寺にもあるそうです。