今日はこの「三方ヶ原の戦い」について書きます。
しかし、この「三方ヶ原の戦い」も書き始めると何回分にもなってしまいますので、極力コンパクトに書いて2回で納めようと思います。
三方ヶ原の戦いは、元亀3年(1573)12月22日に、信玄の西上作戦の過程で、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で行われました。
武田信玄軍2万5千人と徳川家康軍1万1千人(うち織田信長からの援軍3千人)との間で行われた戦いです。
家康と信玄は、家康の三河統一後、今川家の領有していた駿河遠江の侵略のため同盟関係を結んでいましたが、次第に対立するようになり、元亀3年に家康は信玄との同盟関係を断ちました。
信玄は、そうした状況の中でも、足利義昭の要請を受けて、元亀3年10月3日上洛のため西上を開始しまし た。
そして、信濃から遠江に侵攻し天竜川沿いの城を攻め落とした後、一旦北上し二股城を攻撃し、ここも落としました。
信玄は、長い遠征距離があるので、できるだけ浜松城攻めは避ける考えがあったようです。
(上の写真は現在の浜松城です。)
そのため、浜松城に向かうように見せかけた後、進路を西に向け三方ヶ原を通過しようとしました。
家康はこの情報を基に、浜松城で戦評定が行われ、どうするか議論されました。
重臣の多くは籠城策を進言しましたが、家康の判断は出撃でした。
こうして出撃した徳川軍は、同日昼過ぎには三方ヶ原に達し、三方ヶ原の台地から祝田(ほうだ)の坂を武田軍が降りはじめたら攻撃しようとしました。
しかし、信玄は、これを見透かしたかのように、祝田の坂を下る前に行軍の向きを変え、徳川軍を待ち構えていました。
武田軍は魚鱗の陣を布き、徳川軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まります。
戦闘開始は、武田側からの石つぶてによる攻撃だったそうです。
最初のうちは徳川軍は互角に戦っていましたが、戦力でも実践経験でも勝る武田軍に徳川軍は圧倒され、徳川軍は大敗します。
家康も自ら武田軍に突入しようとしますが、部下の夏目吉信に押しとどめられ、命からがら浜松城に逃げ帰りました。
家康公伝には、夏目吉信が家康の乗る馬を浜松城に向けさせ手に持つ槍で馬の尻を叩いて逃げさせたと書かれています。
一方、浜松城まで追撃してきた山県昌景と馬場信房は、城内に突入することなく、そのまま引き上げました。
徳川方で討たれた兵士1千余りで家康の完敗でした。
家康は後年、この敗戦を忘れないようにするため、その姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと言われています。それが有名な「顰(しかみ)像」、正式名称「徳川家康三方ヶ原戦役画像」です。
写真は、岡崎城にある「しかみ像」で、絵の「しかみ像」を基にして作られた石像です。
徳川宗家18代当主徳川恒孝氏が寄贈したのだそうです。
この戦いで、 信玄の軍勢は2万5千人、一方、徳川軍は織田の援軍を含めて1万1千人で、武田軍は2倍以上の軍勢でした。
これほどの軍勢差がある時は籠城策を取るのが定道ですが、なぜ家康が籠城策をとらず出撃したのかということが疑問視されています。
そのこそれについては明日かきます。