三方ヶ原で大敗北を喫した家康は浜松城に逃げ帰ります。そして、城門を開けたままにして篝火を焚かせました。
家康を追撃してきた山県昌景と馬場信房は、城門が開け放されていて篝火が昼間のごとく焚かれ、城中は静まりかえっているのは何か策略があるのではないかと思って引き返したと言われています。
この話は、よく知られた話ですが、家康公伝では、次のように書かれています。
家康が浜松に帰ったときに、・・・・「城門は開けておいて、遅れてくる者を入れよ。その上、敵が近寄っても門が開いているのを見れば疑念を抱き迷いためらうであろう。門外4,5ケ所にかがり火を焚かせよ。」と言って、侍女が作った湯づけを3度おかわりした後、高いびきをかいて眠ってしまった。
日が暮れかけた頃に、甲斐の馬場信房と山県正景が浜松城下まで攻めきたが、門が開いているのを見て正景は「早速攻め入ろう」と言いましたが、馬場信房は「徳川殿は海道一を呼ばれる名将で洗うので、どのような策略をめぐらしているか分からない軽率なことはすべきではない」といった。そして鳥居元忠と渡辺盛綱が討って出てきたので、二人は恐れえて引き返した。
右写真は現在の浜松城です。
この場面は大変有名です。歌舞伎にも取り上げられて「酒井の太鼓」という演目になっているほどです。
家康が取ったこのような自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略を空城計(くうじょうのけい)と言います。
家康は、浜松城に逃げ込んだ際に、この空城の計を利用したというのが通説です。
しかし、こんなにうまく敵が引き揚げていくものでしょうか。
これについて静岡大学名誉教授の小和田哲男先生が「三方ヶ原の戦い」で書いています。
小和田先生によれば、この話は「甲陽軍鑑」にも「三河物語」にも記されていないそうです。
それが時代が下がって「四戦紀聞」という書物になって、通説に言われる情況が書かれているそうです。
このように時代が下がるとともに、浜松城の城門の開け放ちが定説化していくのは家康の神格化に関係があると言います。
そして、このモデルとなったのが「三国志」の「空城の計」ではないかと言っています。
三国志演義に、魏が蜀を大軍で攻めた時に、蜀の諸葛孔明が一計を案じ、城に引きこもって、城門を開け放ち、自らは一人楼上で琴を奏でた。これをみた、魏の司馬仲達は、城中になにか計略があるにちがいないと考え、城を攻めずに軍を引いたという話があります。
小和田先生は 「家康が城門を開け放した話は、これの焼き直しにすぎないのではないか。本当のところは、逃げ帰ってくる兵士が多くて城門をしめるわけにはいかなかったし、武田軍が引き返したのも当然の作戦であった」と書いています。
最後に、徳川勢を浜松城まで追撃してきた馬場信春の徳川勢についての評価について書いておきます。
徳川公伝によれば、三方ヶ原の戦いの後、武田家の重臣馬場信春は信玄にこう言ったそうです。
「今の日本に徳川家康と上杉謙信ほど大将はいないと思います。今度の戦では徳川勢は末端の兵士まで全員戦った。しかも死骸を見ると武田勢に向かって倒れた者はうつ伏せになっていて、浜松の方へ倒れた者は仰向けになって倒れています。」と語ったと書かれています。
敵の重臣の言葉が伝わるはずがないということから、馬場信春の言葉も事実ではないのではないのかと考える人が多いと思います。
しかし、小和田先生は、三河物語に書かれている「信玄が「さてもさても勝ちてもこわき敵なり」と評した」ことは事実ではないかといいます。
それは、武田家が滅亡した後、武田家から徳川家に召抱えられた人が大勢います。
その中に、信玄の側近くに仕えていてこの言葉を聞いた人から、徳川家に伝わったことは十分考えられると書いています。
このことから考えると、馬場信春が徳川勢を評価した話も事実だったということは十分考えられることだということになります。