亀戸天神の本殿の東側に、御嶽神社があります。今日は、この御嶽神社に関係する話題です。
【御嶽(みたけ)神社】
御嶽神社は、境内東側にあります。
道真ゆかりの太宰府御嶽山から勧請されたものです。
江戸時代には亀戸妙義社とも呼ばれていたようです。
この御嶽神社のご祭神は菅原道真の先生であり13世天台座主の法性坊専意(ほっしょうぼうせんい)です。
法性坊専意は、道真公がなくなった後、大宰府天満宮の造営に努力しました。
御嶽神社の鳥居は弘化2年(1845)に筑前藩黒田家の家中により再建されたものです。 天下泰平、国家安穏と書かれていますが、黒船来航などで揺れる世相を反映したものとなっています。
【塩原太助奉納の灯籠】
その鳥居の後ろ側の社殿の左に、講談等で有名な「塩原太助」が奉納した石灯籠があります。
もとは一対でしたが、現在は片方のみ残っています。
灯籠には 「天明元年辛丑年八月十七日、本所相生町住・鹽(塩)原太助」 と刻まれています。
塩原太助は実在の人物で、上野国沼田生まれで 苦労を重ねたのち、本所相生町で薪炭問屋を営み成功した人物です。
その一生は、明治になって、三遊亭円朝が人情話「塩原太助」を語ってから、落語や芝居で有名になりました。
岩波文庫に「塩原多助一代記」がありますので、それを読んでみました。
三遊亭円朝は、これを明治9年に書きはじめ明治11年に完成させています。
明治24年4月に円朝59歳の時に、井上薫侯爵の屋敷で御前講演をする栄誉を博しています。
それ以後、歌舞伎座で上演される他、小学校の教科書にも取り上げられたそうです。
明治時代には、多くの人が、塩原太助の出世話を知っていたのだと思います。
【「塩原多助一代記】
さて、「一代記」の内容は、次のようなストーリーです。
なお、本名は太助ですが、円朝は一代記では「多助」としています。
塩原多助は、阿部伊勢守の元家来の塩原角右衛門の子供として生まれましたが、実父が浪人中のため、8歳の時に上州沼田に300石の田地を有する豊かな塩原家の養子となりました。
しかし、養父角右衛門の死後まもなく、養母が多助をいじめ、命もあぶなくなったため、家を出で江戸に行く決心します。600文の銭を持って、愛馬青に別れを告げて、江戸へ旅立ちます。
乞食同然の格好になりながら江戸に着き奉公口を探しますが、保証人のいない多助は奉公先が見つかりません。
万策尽きた多助が昌平橋から身を投げようとするところを、神田佐久間町の炭問屋山口屋善右衛門に助けられ、そこに奉公することになりました。多助は、良く働きました
そして11年奉公した後の明和8年多助31歳の時に本所相生町に店を出し、炭の計り売りを始め、大層繁盛しました。
そんな時、本所四つ目の御用達の駕籠屋藤野屋杢左衛門の娘で美人の「花」が多助の人柄にほれこみ多助の嫁になりました。
20年後には 「本所(ほんじょ)に過ぎたるものが二つあり津軽大名炭屋塩原」 と言われ、津軽藩十万石と並び称せられるだけの立身出世をしました。
両国駅近くの回向院の南側にあった塩原太助住居跡には、現在はマンションがたっていますが、説明板があるので、住居跡であることがわかります。(左上写真)