今日はそのお話です。
【配流の要因】
異変の話の前に、道真が左遷された理由について諸説あると前回書きましたが、
それについて、京都産業大学法学部教授所功(ところいさお)氏が「菅原道真の実像」(臨川書房)の中で詳しく書いています。
道真は、醍醐天皇を退位させ、醍醐天皇の弟で自らの婿でもある斉世親王(ときよ しんのう)を皇位に即けようとしたという嫌疑で、大宰府へ左遷されました。
こうした嫌疑がかえられ左遷された原因についての諸説をまとめると次の4つ分類できるそうです。
①道真は無実で時平が一方的に策謀したもの
②道真は無実だが源善(みなもとのよし)等が醍醐天皇の廃立を画策したためとみる説
③道真は無実だが、宇多法皇が醍醐天皇の廃立を首唱したためとみる説
④道真も源善と法皇の斉世親王擁立計画に参加したためという説
この中で、数的には①を主張する人が道真の子孫・天満宮関係者をはじめ北畠親房・林羅山・菊池寛・徳富蘇峰など圧倒的に多いそうです。
これらの諸説を検討したうえで、所功氏は、
配流の要因は、道真は一族と菅家門流の宮廷内外における非常な勢力発展が誘因となり、それを抑止排除しようとする左大臣藤原時平側の画策が動因となった
と結論づけています。
【道真没後の異変】
さて、道真が延喜3年(903)になくなった後、京で起きた異変について書いてみます。
まず、道真がなくなって5年後の延喜8年(908)に藤原時平の策謀に加担した藤原菅根がなくなりました。
藤原菅根は、道真左遷をやめさせるために皇居に駆け付けた宇多法皇の参内を阻止した人物です。
そして翌年の延喜9年(909)には、藤原時平自身が39歳の若さで病死しましました。
また、時平の右腕であり道真の後に右大臣となった源光(ひかる)が延喜13年に狩猟中に沼におちてなくなりました。
道真の左遷の中心人物とみなされた人物が相次いで死んだのは道真の怨霊の仕業と多くの人は考えました。
次いで、延喜23年(923)に、醍醐天皇の皇子で時平の甥でもある皇太子の保明(やすあき)親王が21歳でなくなりました。
これも菅原道真の怨霊の仕業だと世間では大いに噂されました。
道真の怨霊を怖れた朝廷は、保明親王がなくなって1か月後の4月、道真を元の従二位右大臣に戻したうえ、正二位に贈位し、醍醐天皇は昌泰4年の道真の左遷を命じた宣命を破棄させました。
さらに、翌月の閏4月11日には元号を延喜から延長に改元しました。
改元までするということはいかに朝廷が道真の怨霊を怖れたかを表しています。
しかし、変事はこれでおわりませんでした。
保明親王がなくなった2年後の延長3年(925)保明親王の皇子で保明親王がなくなた後に皇太子となった慶頼王(時平の外孫)がわずか5歳でなくなります。
朝廷は道真の怨霊の怖さを一層感じたと思います。しかし変事はそれでも終わりませんでした。
5年後の延長8年(930)に清涼殿に落雷があり、多くの公卿が死傷しました。
その年は日照りが続き干ばつとなったため、皇居の清涼殿で公卿があつまって干ばつ対策を相談していた時に落雷があり、道真の左遷に関与したとされる大納言藤原清貫が即死するなど多くの死傷者が出ました。
それを目撃した醍醐天皇のショックも大きく体調を崩し病床に伏し、3ヶ月後の9月に崩御しました。
これらを道真の祟りだと恐れたことから、京都の北野に北野天満宮(左上写真)を建立して道真の祟りを鎮めようとしました。
北野は、北野天満宮が創建される前から天神地祇や雷神を祭祀する地だったそうです。
道真は清涼殿落雷の事件から雷神と結びつけられたため、北野の地に「天神」として祀られたそうです。
これ以降、天神信仰が全国に広がっていきます。
天神信仰については次回書きます。